初平年間に関中から、劉表が統治していた荊州に移住する。劉表の死後、その後を継いだ劉琮が曹操に服従すると、邯鄲淳も招聘を受ける。曹操は彼の才能や名声を聞いて敬意を払い、折りしも子の曹植が彼を求めたため、その配下とした。曹植は邯鄲淳と終日論じ合って、その博識ぶりに感嘆したと言われている。曹丕もまた彼を重んじて、魏の建国後に博士給事中に任命したが、この時には既に90歳近くになっていたとされ、程なく病死したと考えられている。
彼は書家としても知られ、『説文解字』をはじめとするあらゆる古い書体の知識に通じており、かつそれらに巧みであった。篆書は当代随一、隷書も梁鵠に次いだと言われている。
『三国志』には伝はないものの、同時代の『魏略』に伝が立てられている[1]。