伊達政宗の乱
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経緯
元中9年(1392年)奥州管領職は廃止され、吉良・畠山・斯波・石塔ら奥州四管領に代わり奥羽両国は鎌倉府の管国に加えられた。
応永5年(1398年)将軍足利義満は奥州探題に大崎詮持に任じ奥州への影響力を強める。翌応永6年(1399年)鎌倉府は室町幕府に対抗し、奥州支配強化のために足利満直を篠川御所、足利満貞を稲川御所として下向させ、白河に奥羽諸侯を集め両公に従い領土割譲を要求した[注 1]。
応永7年(1400年)3月伊達政宗は要求に反発し大崎、斯波両氏と共に無断で帰国した[1]。この行動に対して鎌倉府は結城満朝を仕向け大崎詮持を瀬ヶ崎で謀殺。大崎満詮は瀬ヶ崎から田村の大越まで逃れたが自刃に追い込まれた。政宗は結城満朝から米沢まで逃げた。伊達政宗の討伐の為、新田岩松氏を大将とした軍を起すも岩松満純は伊達西根長蔵の要害を攻撃したが敗北した[2]。
同年5月関東管領上杉氏憲を総大将とした28万騎の鎌倉府の大軍が伊達氏の一族長倉入道の籠る赤館を攻撃したが大敗。鎌倉府の軍は将の一人勅使河原兼貞を生け捕りにされた。しかし、鎌倉府は日ごとに兵を増やし、9月伊達政宗が降伏する構えで停戦した。