郭延魯

From Wikipedia, the free encyclopedia

郭 延魯(かく えんろ、891年 - 937年)は、五代十国時代軍人官僚は徳興。本貫沁州綿上県[1][2]

沁州刺史の郭饒の子として生まれた。若くして武勇にすぐれ、槊を用いるのを得意とした。旧将の子として晋王李存勗に抜擢されて、保衛軍使となった。契丹の進攻を防いで功績を挙げた。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が即位すると、延魯は協謀定乱功臣の号を賜り、検校兵部尚書・右神武軍都知兵馬使を加えられた[3][2]

天成2年(927年)、汴州朱守殷が反乱を起こすと、延魯は明宗に従って東行し、先頭に立って塁壁を築いた。朱守殷の乱が平定されると、延魯は功績により汴州歩軍都指揮使に任じられ、検校尚書左僕射を加えられた。長興元年(930年)、検校司徒を加えられ、天雄軍馬歩軍都校となり、梧州刺史を遥領した。清泰2年(935年)、復州刺史に転じた。任期を満了すると、復州の民衆に留任を求められた[4][2]

後晋天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、延魯は単州刺史に任じられ、検校太保を加えられ、輸誠奉義忠烈功臣の号を賜った。着任した翌月、単州で病没した。享年は47。太傅の位を追贈された[4][2]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI