郭謹
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若くして従軍し、騎射を得意とし、河中教練使に累進した。後晋の天福年間、奉国軍右廂都指揮使となり、禺州刺史を遥領した。天福3年(938年)、奉国軍右廂都指揮使のまま、泗州防禦使に転じた。天福4年(939年)、侍衛親軍歩軍都指揮使に任じられ、夔州節度使を兼ねた。天福6年(941年)、石敬瑭が広晋府に赴くと、郭謹はこれに従った。天福7年(942年)、郭謹は彰徳軍節度使に任じられた。開運元年(944年)、鄜州節度使に転じた。開運2年(945年)、入朝して左神武軍統軍となった。開運3年(946年)、再び鄜州節度使に任じられた[1]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、郭謹は太原府の旧臣として、検校太尉を加えられ、義成軍節度使に転じた。乾祐元年(948年)、再び彰徳軍節度使に任じられた。乾祐2年(949年)、検校太師を加えられた。乾祐3年(950年)10月、在官のまま死去した。享年は60。侍中の位を追贈された[1]。