郷温
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嘉永4年(1851年)頃、郷純造の弟・助十郎の次男として生まれた。のちに純造・いね夫妻の養子となり、家督を継ぐことが定められた。郷誠之助の自伝によれば、万延元年(1860年)3月に「温8歳にしてくる」とあり、これにより生年は嘉永4年頃と推定される[1]。
温は几帳面で丁寧な性格で知られ、弟・誠之助の教育や生活を支える存在であり自著でも度々若い頃世話になったと兄について繰り返し述べている [2]。明治10年(1877年)から明治12年(1879年)にかけて誠之助が仙台中学に学んだ後、帰京して中島行孝の私塾に通い始めた際にも、温は家庭内の学業環境整備に尽力した[3]。
弟・誠之助が勉学を怠っていた時期には、父・純造を大いに困っており、純造は心配のあまり松方正義に説得を依頼し、兄の温に「誠之助を松方公の所へ行かせよ」と命じた。 温がその旨を伝えると、誠之助は「松方公に会う用事はない」と拒んだ。すると温はあえて「そんなことを言って、実は松方公に会うのが怖いのだろう」と挑発的に言い放った。誠之助はその言葉に反発し、「何が怖いものか、それならば行ってみせる」と言って松方邸へ向かった。その後邸では松方が他の客と応対中であったが、誠之助を招き入れ、人生や学問への姿勢について諭した。しかし誠之助は興奮したまま、「私の行動について説諭を受ける必要はありません」と言い返して席を立ってしまったという。 この一件は誠之助の自伝にも記されており、温が兄として機転を利かせ、あえて弟の反発心を利用して行動を促した場面として知られる。温の冷静で策略的な判断と、誠実な兄としての責任感がうかがえる逸話である[3]。
誠之助の同志社英学校や東京大学の学費は温が負担しており、また誠之助が父に勘当されていた時期には、温が毎月7円ずつ生活費を送り続けたという。こうした経済的援助は、誠之助の学業継続や後の実業活動の基盤となった[4]。
明治25年(1892年)ごろ、誠之助が嫡男の地位を廃して温に家督を譲ろうとするほど、温は家内外で信頼されていた。このころ、温は東京毛糸紡績会社の社長を務めており、のちに後身の東京製絨会社が設立されると、弟・誠之助が明治41年(1908年)にその社長職を継いでいる[5]。
『官員名鑑』明治10年(1877年)10月には、温が太政官九等属であったことが記録されており、また『改正官吏録』明治15年(1882年)8月には銀行局御用掛准判として掲載されている。
家庭では、妻をはるといい、子に長女恭子、三男昇作(後に日本鉛管製造所所長)をもうけた。明治34年(1901年)5月14日に死去した[6]。一時は真面目で几帳面な兄に家督を譲りたいと考えていた誠之助であったが、兄が肺の病にかかり家督を譲ることが困難だと考えたことから心機一転し、真面目な生活に改めたという。