鄭仁誨
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鄭覇の子として生まれた。幼くして後唐の将の陳紹光に仕えた。あるとき陳紹光は酒に酔って暴れて、佩剣を抜いて仁誨に突きつけたことがあった。側近たちは恐れて逃げ回ったが、ひとり仁誨はまっすぐ立って待ち、恐れる様子がなかった。陳紹光は剣を地に投げうって、「おまえにこの器量があれば、必ず世間の富貴を受けることができるだろう」と仁誨にいった。陳紹光が刺史となると、仁誨はかれを補佐する職を歴任した。のちに郷里に帰って隠退し、親に孝養を尽くした。劉知遠が太原府に駐屯し、郭威がその邸に詰めると、仁誨と語り合った。郭威が質問するたびに、正しい筋道で回答したので、郭威は仁誨の器量を認めた[1][2]。
後漢が華北を平定し、郭威が枢密副使となると、仁誨は召し出されて従職についた。乾祐元年(948年)、郭威が西方の李守貞・趙思綰らの反乱を討つと、仁誨は軍機に参与した。征西軍が凱旋すると、仁誨は検校吏部尚書に累進した[1][2]。
後周の広順元年(951年)、太祖郭威が即位すると、仁誨は補佐の功労により、検校司空・客省使に任じられ、大内都点検・恩州団練使を兼ねた[1][2]。広順2年(952年)、枢密副使となった[3]。宣徽北院使・右衛大将軍に転じた[1][2]。広順3年(953年)、澶州節度使となり[4]、検校太保を加えられた[1]。顕徳元年(954年)、入朝して枢密使となり、同平章事を加えられた[5]。世宗柴栄が北漢を征討すると、仁誨は東都留守をつとめ、軍資を徴発して、補給を欠かさなかった。世宗が帰還すると、仁誨は侍中を兼ねた。母が死去したため、仁誨は辞職して喪に服したが、ほどなく官に復帰した。顕徳2年(955年)冬、病没した。中書令の位を追贈され、韓国公に追封された。諡は忠正といった[6][7]。
子に鄭勲があり、宮中の職を歴任したが、早逝し、後嗣は絶えた[6]。