鄭受益
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文学で身を立て、尚書郎[3]を歴任し、吏部郎中となった。後晋の天福6年(941年)2月、唐史の編纂事業に参加した[4]。7月、右諫議大夫に転じた[5]。天福7年(942年)夏、張彦沢にしばしば道にそむく行為があったことから、受益は上表して訴え、宰相に憎まれた。まもなく病を理由に長安に帰った。高祖石敬瑭が死去すると、受益は国葬に赴かず、任を停止された。赦令に遭って、京兆少尹に任じられた。宰相趙瑩が晋昌軍節度使として長安に出向してくると、受益はかつての同僚として、趙瑩に歓待された。趙瑩に信任されて、京兆府の民衆の品級を定める事務を任されたが、法を曲げて利益を得た。不正に財産を蓄えていたことが発覚し、趙瑩が取り調べると、その値100万におよんだ。天福8年(943年)冬、受益は家で死を賜った[3]。