鄭琮
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経歴
はじめ李克用に仕えて五院軍小校となり、しばしば軍功があった。晋王李存勗が黄河で梁軍と対陣していたとき、鄭琮は馬歩軍都虞候となった。軍隊でのことは一目見ると忘れず、問われたことには流れるように応答したので、在所で名を知られるようになった[1]。
後唐の同光4年(926年)、鄭琮は李嗣源に従って魏州を攻撃した。ときに軍中で変乱があったので、李嗣源は魏県に退いて守り、進むべき方向を決められないでいた。安重誨が四方で徴兵しようとすると、鄭琮は諸道に駐屯する軍と主将の姓名を列挙して檄文を伝えたので、諸軍は相次いで李嗣源のもとにやってきた。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、鄭琮はその功を嘉されて、坊州刺史に任じられた。任期を満了すると、坊州の父老に留任を請願された。天成3年(928年)8月、左羽林軍統軍となった。長興2年(931年)2月、武州刺史として出向した[1]。清泰元年(934年)、右衛上将軍となった[2]。
後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、鄭琮は再び右衛上将軍となった。俸禄が安く家は貧しく、鬱々として志を得なかった。天福年間、鄭琮は在官のまま病没した。司徒の位を追贈された[1]。