酒井鶯蒲
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築地本願寺の末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(雪仙)の次男として生まれる。抱一が吉原で身請し、事実上の妻となっていた小鶯(妙華尼)の願いで、文政元年(1818年)11歳で雨華庵に入る。『古画備考』には文政10年(1827年)国学者檜山坦斎からの聞き書きとして、鶯蒲が抱一のことを「御父様」と呼ぶことを姫路酒井家から咎められたこと、しかし抱一も鶯蒲をよく愛したこと、水戸公に会った折抱一と共に席画などをした事、書を良くし、茶道を好んだことなどが記されている。鶯蒲が描いた「浄土曼荼羅図」(個人蔵)には、抱一の箱書きや手紙が付属し、鶯蒲に世話をやく抱一の様子がわかる。
鶯蒲は早世しており遺作は少ないとされたが、近年その印象を覆す質・量の作品が発見されており、雨華庵を託されるだけの力量を持った絵師だったことが確認された。作風は基本的に抱一に倣ったもので、父子合作も多いが、天井画や絵馬、扇・団扇や極小の絵巻といった工芸的作品、版本下絵や俳諧摺物など多方面で絵筆を揮っている。雨華庵は絵画工房ではあるものの、基本的には仏事を行う場所であるためか、早くから仏画の修練を積んでいる。しかし、天保12年(1841年)34歳で早世。戒名は依心院詮真法師 唯信寺鶯蒲。墓所は築地本願寺。鶯蒲に子はなく、築地善林寺の長子を養子とし雨華庵3世酒井鶯一として継がせた。他の弟子に、斎藤一蒲など。