鶴岡県
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沿革
前史:酒田県(第1次)
江戸時代、庄内地方には庄内藩およびその支藩である出羽松山藩が所在していた。戊辰戦争時、庄内藩は慶応4年/明治元年9月27日(西暦1868年11月11日)に新政府軍(越後口総督府)に降伏し、鶴岡城が接収された[1]。9月29日には主要な港湾都市である酒田に酒田民政局が設置され、新政府の管理下に置かれた[2][3]。
庄内藩主酒井忠宝に対しては、明治元年12月(1869年2月)に若松(旧会津藩)、明治2年6月(1869年7月)に磐城平藩への転封が命じられたが、同年7月22日(8月29日)に至り70万両の献金を条件として従来通り庄内領有が認められ[1]、同年9月29日(11月2日)に庄内藩は「大泉藩」に改名する[1]。また、出羽松山藩も同名回避のため同年に「松嶺藩」に改名した[4]。
一方、酒田民政局は明治2年7月20日(1869年8月27日)に改組され、酒田県(第1次)となった[3][注釈 1]。同年10月、酒田県では凶作や租税に対する不満などを背景として農民騒動「天狗騒動」が発生し、県の農民支配機構は機能不全に陥った[5]。明治3年9月28日(1870年10月22日)[3][6]、酒田県知事は免官となり[5]、酒田県と旧山形藩領・長瀞藩領等が統合されて、山形を県庁とする山形県(第1次)[7]:2(地方史においては旧山形県とも[3])が設置された[3][6]。また、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県により、大泉藩(旧庄内藩)と松嶺藩(旧出羽松山藩)はそれぞれ松嶺県・大泉県となった。
酒田県(第2次)の設置
明治4年11月(1871年12月)の第1次府県統合により、庄内地方(羽前国田川郡および羽後国飽海郡)を管轄する県として酒田県(第2次)が設置され、酒田に県庁が置かれた[3]。酒田県の首脳部は旧庄内藩士が占めた[8]。新暦1873年(明治6年)末、酒田県(庄内地方)では、納税問題を契機としてほぼすべての村を巻き込んだ農民騒動「ワッパ騒動」が発生、改革派士族の金井質直や酒田商人森藤右衛門らの県政改革要求と結びつきながら、以後数年にわたって続いた[8][注釈 2]。自由民権運動の先駆的な運動とも評される[9]。1874年(明治7年)12月、明治政府は県首脳部を更迭するとともに県令に三島通庸を送り込み、三島は強硬策[注釈 3]によって事態収拾を図った。
鶴岡への県庁移転から廃県まで
1875年(明治8年)8月31日、酒田県(第2次)は鶴岡県に改称され[3][11]、県庁も鶴岡に移転[11]。1876年(明治9年)8月21日、鶴岡県・置賜県・山形県の3県が廃止・統合され、現代に至る県域を有する山形県が設置され[11]、庄内地方は山形県の一部となった。新たな山形県県令には旧鶴岡県令三島通庸が就任した。