光緒22年(1896年)4月下旬、醇賢親王嫡福晋は重病にかかり、西太后はついに彼女と光緒帝が対面することを許可した。光緒帝は西太后と共に4度、醇王府を訪れて見舞った。
同年5月8日、醇賢親王嫡福晋は肝病のため薨去した。光緒帝は「陀羅経被を賜るよう命じ、当日に自ら弔問に赴いた」。また「邸宅に赴き、喪服を着て礼を行った」。大学士の崑岡、礼部尚書の懷塔布、総管内務府大臣の文琳、工部右侍郎の英年を喪儀の担当に任命した。光緒帝は11日間、朝議を取りやめた。
西太后の懿旨により、醇賢親王嫡福晋は「皇帝の生母」と称されることとなった。
その後、側福晋であった劉佳氏は孫の溥傑にこう回想している。
「慈禧太后(西太后)は自ら王府に来て、妹の死を嘆き悲しんでいた。しかし、彼女の妹が亡くなり、お前の父である載灃が王爵を継承したことで、太后は激しい嫉妬に駆られた。そして、あらゆることで難癖をつけ、私たちは皆、恐れおののいた。太后は怒りの声で、王府内で最も豪華な宝飾品や簪などをすべて、お前の嫡祖母(福晋)の棺に入れるよう命じた。私たちには何一つ良いものを残さないためだった……」。
光緒34年(1908年)10月、息子である光緒帝が崩御すると、その庶弟である載灃の子・溥儀が皇帝に即位した。同年11月3日(1908年11月26日)、清朝は慈禧太后の遺詔を発布し、四季の祭祀で供物を捧げることを定めた。溥儀の祖父である醇賢親王は「本生祖考 醇賢親王」、その嫡福晋は「本生祖妣 醇賢親王嫡福晋」と称された。