家基は鎌倉公方足利持氏の奉公衆で多賀郡手綱郷の地頭であった。佐竹の乱の鎮圧に貢献したことで足利持氏によって宍戸荘小原郷の地頭職を与えられたので、弟の民部少輔満俊に小原郷を管理させたという[5]。子供には兵庫助基宗がいたとされる[2]が、高萩市上手綱の朝香神社には応永5年(1398年)と応永23年(1416年)の棟札があり、その頃に手綱郷の地頭であったとされる[6]。
永享10年(1439年)に持氏が将軍足利義教に反旗を翻して永享の乱を起こした折に、持氏に従い活動したものの、戦死している。
あるいは、結城氏朝が永享12年(1441年)に持氏の遺子を擁立して将軍義教に抵抗した結城合戦において戦死した里見修理亮が家基であるとする説もある。修理亮は、籠城した結城城を上杉憲実に包囲されて進退窮まり、落城に際し氏朝や子の家氏らと共に討死した。
家基の子とされる義実は命からがらに脱出して安房に流れ、そこで里見氏を再興したというが、安房の国人たちや、安房への過程で通過する三浦半島の領主三浦時高は反持氏派であり、結城合戦の際も将軍に同調して結城方を攻めているので、持氏に与した里見の者を看過するはずもなく、さらに義実は応永19年(1412年)生まれであり、家基と年齢的に父子関係があるかどうかも踏まえて、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている[7]。ただし、家基自身の存在は確実視されている[3]。