里見義実

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時代 室町時代後期
生誕 応永24年(1417年[1]
戒名 杖珠院殿建宝興公居士
 
里見 義実
時代 室町時代後期
生誕 応永24年(1417年[1]
死没 長享2年4月7日1488年5月18日
戒名 杖珠院殿建宝興公居士
墓所 千葉県南房総市白浜町白浜4295 杖珠院
官位 左馬助、大隅守、刑部少輔
氏族 安房里見氏
父母 父:里見家基?、母:不詳
兄弟 家氏?、義実海保氏義
武田信長の娘[2]
成義?、成頼?、義秀?、中里実次?、元近?、
義富?、義通?、実堯?、東条実倫?
特記
事項
上記記述は系譜による。史料的には架空説も有力である。
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里見 義実(さとみ よしざね)は、室町時代武将

通説では、里見家兼の孫で里見家基の子とされて、安房国安房里見氏の初代となったとされる人物であるが、近年では架空人物説、美濃里見氏庶流出身説などがある。子は里見成義中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通里見実堯兄弟が義実の実子であると考えられている。しかし、生物学的な年代分析から見ての蓋然性から、むしろ里見成義の存在を架空とすること自体が里見氏の系譜関係を著しく不自然にする事情などから、この成義の実在を支持する説もある。

上野国新田氏の一族であった里見氏は南朝方に従っていたものの、宗家没落後に一族の中に北朝側に参加する者が現れた。やがて、室町幕府に従って美濃国に所領を得た里見義宗観応の擾乱足利直義側につくと直義が南朝と結んだ事もあり、里見一族は直義方として参加する。だが、直義は敗北して美濃里見氏は所領を失って没落した。

その後、里見惣領家の里見家兼が鎌倉公方足利満兼に召しだされて常陸国に所領を得たという。ところが、永享の乱で家兼が自害し、続いて結城合戦で家兼の子の家基がその子の家氏とともに討たれて、家基のもうひとりの子とされる義実は安房に落ち延びたとされている。

だが、近年において、義実を旧来の伝承による上野里見氏嫡流ではなく、美濃里見氏・義宗の末裔であったとする説が出されている[3]。同時に義実は源姓里見氏とは無関係の人物で、義実脱出の伝承については虚構の疑いが持たれている説もある[4]

義実の安房入国伝説

脚注

関連項目

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