野坂操壽 (2代目)
日本の箏曲家、作曲家
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来歴
生い立ち
1938年4月生まれ、東京府出身。母である箏曲家の初代野坂操壽から指導を受けた[1]。なお、初代操壽は箏曲家の宮城道雄に師事しているため、惠子は宮城の孫弟子にあたる。また、9歳の頃より、箏曲家の加藤柔子に古典箏曲、地歌三絃を師事した[1]。東京芸術大学の大学院に進学し[1]、音楽研究科にて学び、修士課程を修了した[1]。
箏曲家として
1965年に初めてのリサイタルを開催した[1]。また、同年より1982年まで日本音楽集団の団員として活動した[1]。1969年に二十絃箏を開発し[1]、1991年には二十五絃箏を発表するなど[1]、伝統に囚われず新しい楽器の開発にも取り組んだ。さらに、1994年からは作曲家の伊福部昭にも師事した[1]。後進の育成にも力を注いでおり、1996年より2006年にかけて、母校である東京芸術大学にて音楽学部の講師を非常勤で務めた[1]。桐朋学園芸術短期大学においては、芸術科の教授を務めた[1]。指導した者の中からは、秋岸寛久、かりんといった箏曲家などを輩出している。2002年、初代操壽が亡くなった。それに伴い、翌年、二代目操壽を襲名した[1]。その後も本名の「野坂惠子」名義を用いることもあったが、2007年より演奏に関する全活動を「野坂操壽」名義で行うことにした[1]。2019年8月27日、急性骨髄性白血病により81歳で死去した[2]。