野老山吾吉郎
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吾吉郎は弘化3年10月10日(1846年11月28日)、高知城下・山野辺寿満平の次男として生まれる。当初は山野辺姓であったが、藩より新規召し出しを受けた際に、和食村野老山氏の分家であった事から旧姓「野老山」を称する。武芸に秀で、早くから勤王論を考えていた一人であった。洒落者でもあり、長く設えた赤鞘の大小を愛用していた。なお、坂本龍馬とも同郷(吾吉郎が10歳年下)で旧知の間柄であった。
野老山氏は、もと伊賀国の農耕神祇(のうこうじんぎ)に発祥する神々を祀る上野天満宮の神官であった野口氏。蘇我氏の傍流(後の長宗我部氏)が土佐に入国する際に畿内を離れ、長宗我部氏に仕えたとされる。四国平定の際に功績として野老山一帯(高知県高岡郡)の所領を賜った事から野口姓から野老山氏に改姓。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が西軍に与し、改易となった際に郷士となった。
文久元年(1861年)、武市半平太が土佐勤王党の結成に際し土佐各地で同志を募ると、これに共感し土佐勤王党に加わった。文久3年(1863年)、京都藩邸警備御用を任ぜられ京都河原町土佐藩邸詰となり、以降、勤皇派の志士と交わることとなる。
元治元年(1864年)6月、池田屋事件で死亡。享年19。坂本龍馬は吾吉郎の家人に後日再会し、その死を悼んだという。1898年(明治31年)、贈従五位[1]。墓所は京都市東山区霊山、高知市薊野(あぞうの)真宗寺山。