金井清光
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長野県松本市に生まれる。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、姫路高等学校を経て、1943年(昭和18年)、東京帝国大学文学部国文学科に入学するも、学徒出陣する。シベリア抑留をへて帰国。1952年、東京大学国文学科卒業、同大学院に進学。この間、通学をしながら武蔵野女子学院高等部にて教鞭を執り、教頭であった雲藤義道の引見により、後年時宗法主となる河野憲善と出会う。1957年、大学院在学期限満了となり、鳥取大学学芸学部(のち教育学部)に奉職。やがて教授となるも、授業中の発言を巡って休職・退官に追い込まれる。推輓により清泉女子大学文学部教授となる。
日本歌謡学会理事。『能の研究』により國學院大學で文学博士号。中世の能、狂言、謡曲を専門とする。その過程で、“中世は浄土真宗などではなく時宗が人々の心を惹きつけていた”ことに気づき、時衆研究をはじめる。
時衆研究者として
- 宗派史観に囚われることなく、時宗を時衆として認知し、中世社会にどれほど浸透していたかを粘り強く解き明かしている。わかりやすい文章と論理構造で、初期の時衆研究を牽引し、晩年まで『一遍聖絵』を中心に現役で新稿を発表し続けた。
- 貧困の時代を知る世代からみて、網野善彦らの賎民論にはリアリティがないとする。
- 教務の合間を縫って、夜行列車で鳥取と各地を往復し、時宗寺院の大部分を直接訪問している。単身でガリ版刷りの『時衆研究』を隔月で発刊していた。
- 観阿弥・世阿弥を史料通り「観阿」「世阿」とすべきと主張している。
- 坂井衡平の研究を見いだし、世に知らしめた。
- いわゆる遊行派の創始を巡って、橘俊道、河野憲善と繰り広げた論争は研究史に遺る。論文中では河野を痛罵しながら、両者は友情で結ばれていた。