金剛城寺
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 金剛城寺 | |
|---|---|
|
全景 | |
| 所在地 | 兵庫県神崎郡福崎町田口236 |
| 位置 | 北緯34度59分4.95秒 東経134度43分30.01秒 / 北緯34.9847083度 東経134.7250028度座標: 北緯34度59分4.95秒 東経134度43分30.01秒 / 北緯34.9847083度 東経134.7250028度 |
| 山号 | 七種山 |
| 宗派 | 高野山真言宗 |
| 本尊 | 十一面観世音菩薩 |
| 創建年 | 伝・推古天皇5年(597年) |
| 開山 | 伝・恵灌 |
| 中興年 | 慶長6年(1601年) |
| 中興 | 台肪明覚 |
| 札所等 |
新西国三十三箇所第30番 播磨西国三十三箇所第12番 |
| 文化財 | 石造地蔵菩薩像(町指定有形文化財) |
| 公式サイト | 七種山 金剛城寺 |
| 法人番号 | 3140005014722 |
金剛城寺(こんごうじょうじ)は、兵庫県神崎郡福崎町にある高野山真言宗の寺院。山号は七種山(なぐささん)。本尊は十一面観世音菩薩。新西国三十三箇所第30番札所。
寺伝によると、推古天皇の時代に聖徳太子が自らこの地に来訪して七種山に登り、山容に霊気を感じて「これ三宝相応の地なり」といい国家安泰の祈願所として一寺を建立しようとしたが、推古天皇30年(622年)に亡くなった。その後、太子の師である慧慈法師よりこれを聞いた日本における三論宗の開祖である高麗僧恵灌により、太子の遺志を継いで当地・七種山の中腹にある七種の滝の近くに滋岡寺(しげおかじ)という寺が創建された、これが当寺の始まりであるという[1]。
当地・七種山には修行僧の滋岡川人(しげおかせんにん)が住んでおり、干魃の時に七つの種を人々に与え飢餓から救い、この種は尽きることがなかったという。山の名はこの伝説に由来している[2]。恵灌が寺を建立しようと当地を視察した際、川人より十一面観音を刻んで安置するよう命じられたと伝わる。そのため、本尊の十一面観音は恵灌法師一刀三礼の御作であるという[1]。しかし、一説によるとこの十一面観音は川人が自刻したものを恵灌法師に附託したものであるともいう[2]。また、最初の寺号はこの滋岡川人より名付けられたといわれている。
諸国の人びとの寄進を得て七堂伽藍が完成すると、舒明天皇5年(633年)5月18日に法道仙人を招いて開山式が行われた[1]。
天平4年(732年)に焼失するが、聖武天皇の勅命で再建される[1]。
嵯峨天皇の時代に空海(弘法大師)が来山し、真言密教の秘法を修して以降は真言宗の寺となり、寺号を金剛城寺と改めている[1]。
観応元年(1350年)に兵火によって焼失するが、足利尊氏の命で再建され、当郡名柄ノ庄を寄進され永代寺領としている[1]。しかし、文明6年(1474年)に再び兵火によって焼失し、これによって衰退した[1]。
江戸時代初期の慶長6年(1601年)に台肪明覚上人により中興[1]されて作門寺(さくもんじ)と改められ、復興が始まる。
姫路城主池田輝政によって七種山林五十町四方を永代料として寄進されると、更に徳川家康に上願して慶長9年(1604年)に当山鎮守の七種権現領として、山城全体に及ぶ御朱印が下されている[1]。
1870年(明治3年)に行われた廃仏毀釈によって寺地を国に没収され、境内が七種山の中腹から現在地に移された[1]。その後、1897年(明治30年)に没収された旧境内地七種山林百十余町歩の下げ渡しの訴訟を起こし、1902年(明治35年)に勝訴している[1]。
1928年(昭和3年)に現在の寺号である金剛城寺に戻された。
当寺の境内を横切る形で当寺の東側にある田賀神社の参道が通っている。
七種山には観音滝、雌滝、虹ヶ滝などをはじめとして、七種四十八滝といわれるように山中いたるところに瀧がある。なかでも雄滝は神戸新聞社により「七種滝金剛城寺」として県下八景の一つに選ばれている[2]。
境内
文化財
福崎町指定有形文化財
- 石造地蔵菩薩像
前後の札所
開門時間
- 午前9時 - 午後4時
所在地
- 兵庫県神崎郡福崎町田口236