金城次郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 1912年12月3日
沖縄県
死没 2004年12月24日(92歳)
沖縄県
職業 陶芸家
子供 息子2人 娘1人
きんじょう じろう
金城 次郎
生誕 1912年12月3日
沖縄県
死没 2004年12月24日(92歳)
沖縄県
職業 陶芸家
子供 息子2人 娘1人
テンプレートを表示
魚紋大皿(1967年)
魚紋大皿、藤田田特注品、濱田庄司監修、(1970年代)
魚紋大皿、(1970年代)
海老紋大皿、上村正美コレクション(1960年代)
オーグスヤ指描大壺(1960年代)

金城 次郎(きんじょう じろう、1912年大正元年)12月3日[1][2] - 2004年平成16年)12月24日[1][3])は那覇市生まれの陶芸家。国の重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者(沖縄県で初の人間国宝)。

父は、大里村出身、母は壺屋出身。1925年、13歳で陶工として新垣栄徳に師事し[4]、この年に民藝運動を展開していた濱田庄司と出会う[4]。のちに濱田の助手となる[5]。戦前は、民藝運動の中心人物である柳宗悦の影響を強く受け、製作に反映させていった[4]太平洋戦争中は召集され、飛行場建設や軍需品の製作に従事した[4]。戦後の1946年に壺屋で自らの工房を開いた[4]

1955年、第29回国画会公募展初入選。1956年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」で新人賞[4]。1957年、第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞[4][4]。同年、国展推薦新会友となる[4]。1967年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞[4]、日本民藝館展入選[4]。1969年、第43回国展会友優秀賞受賞[4]

日常的な暮らしの中の日用品に「用の美」を見出そうという民藝運動に作品は合致し、数々の受賞をして名前を馳せていった。しかし、この頃から窯の煙の公害問題で登窯が使えなくなり[4]、1972年に活動拠点を読谷村に移した[4]1985年沖縄県で初の重要無形文化財技能保持者(人間国宝)に選ばれた[4]2004年心筋梗塞のため死去。

作品は、素朴な作風の壺屋焼上焼)で、食器酒器などの日用雑器が多く、また、魚や海老をモチーフにしたものが多い。笑っているように見える魚(笑う魚)などユーモラスな「魚紋」は金城次郎作品を代表する絵柄である。

3人の子はすべて陶芸家で[6]、一族には壺屋焼陶芸家が多く、次郎の弟である敏雄の血筋を含め「金城一門」と呼ばれる。

略歴

評価

  • 「珍しいくらい良く出来たひと、彫ったり描いたりする模様も上手く、陶芸の仕事で出来ないものはない」(河井寛次郎[5]
  • 濱田庄司の「次郎は考えないでつくる」という言葉に、「僕だって、考えておるさ」[5]と述べた。また、濱田は金城次郎の皿に隙間なく並ぶ魚のデザインを見て閉口し、「これでは魚があんまり多くて息苦しそうだ」と述べている[5]。しかし、70歳の時、脳梗塞で金城次郎が倒れると、「もう次郎は何をつくってもよい」といたわった[5]
  • 1970年の東京三越本店「沖縄壺屋三人展」の陳列時に、濱田は金城次郎の秀作に最も高い値段をつけるように指示している[5]

評伝・作品集

  • 『沖縄の陶工 人間国宝 金城次郎』 大塚清吾 写真、日本放送協会出版、1988年
  • 松井健『金城次郎とヤチムン 民藝を生きた沖縄の陶工』 榕樹書林「がじゅまるブックス」、2016年
  • 『金城次郎 壺屋時代作品集』 久高民藝店監修、国書刊行会、2020年

金城次郎館

2023年2月5日、沖縄県南城市知念山里に金城次郎館が開館した[7](当面は日曜日の正午~午後5時の開館[7])。

関連項目

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI