金城次郎
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父は、大里村出身、母は壺屋出身。1925年、13歳で陶工として新垣栄徳に師事し[4]、この年に民藝運動を展開していた濱田庄司と出会う[4]。のちに濱田の助手となる[5]。戦前は、民藝運動の中心人物である柳宗悦の影響を強く受け、製作に反映させていった[4]。太平洋戦争中は召集され、飛行場建設や軍需品の製作に従事した[4]。戦後の1946年に壺屋で自らの工房を開いた[4]。
1955年、第29回国画会公募展初入選。1956年、第30回国展出品「呉須絵台付皿」で新人賞[4]。1957年、第31回国画展で「抱瓶黒釉指描」が国画賞受賞[4][4]。同年、国展推薦新会友となる[4]。1967年、第1回沖縄タイムス芸術選奨大賞受賞[4]、日本民藝館展入選[4]。1969年、第43回国展会友優秀賞受賞[4]。
日常的な暮らしの中の日用品に「用の美」を見出そうという民藝運動に作品は合致し、数々の受賞をして名前を馳せていった。しかし、この頃から窯の煙の公害問題で登窯が使えなくなり[4]、1972年に活動拠点を読谷村に移した[4]。1985年に沖縄県で初の重要無形文化財技能保持者(人間国宝)に選ばれた[4]。2004年に心筋梗塞のため死去。
作品は、素朴な作風の壺屋焼(上焼)で、壺、食器、酒器などの日用雑器が多く、また、魚や海老をモチーフにしたものが多い。笑っているように見える魚(笑う魚)などユーモラスな「魚紋」は金城次郎作品を代表する絵柄である。
3人の子はすべて陶芸家で[6]、一族には壺屋焼陶芸家が多く、次郎の弟である敏雄の血筋を含め「金城一門」と呼ばれる。
略歴
- 1912年(大正元年)12月3日、那覇市与儀で出生[1]。
- 1924年(大正11年) 新垣栄徳の製陶所に入門[1]、壷屋の製陶に従事。
- 1946年(昭和21年) 那覇市壺屋に工房を開く[1]。新垣栄徳の窯を共同使用。濱田庄司、河井寛次郎らの指導のもとで壺屋焼を守り発展に努める。
- 1957年(昭和32年) 「魚紋大皿」と「抱瓶」が、ルーマニア国立民芸博物館に永久保存となる[4]。
- 1958年(昭和33年)12月、東京三越本店にて「沖縄壺屋三人展」開催。
- 1972年(昭和47年) 沖縄本土復帰。読谷村に移住し窯を開いた[1]。同年11月21日、沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定される[4]。
- 1977年(昭和52年)11月10日、「現代の名工」として労働大臣表彰[4]。
- 1978年(昭和53年)12月28日、高血圧で倒れ、4か月の静養[1]。
- 1985年(昭和60年)3月23日、「琉球陶器」での重要無形文化財技能保持者(人間国宝)に認定[1]、沖縄県功労章受章[1]。
- 1993年(平成5年) 勲四等瑞宝章受章[1]。
- 1997年(平成7年) 引退していたことが明らかになった。
- 2004年(平成16年) 死去。享年92。




