金子伊昔紅
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本名は金子元春。独協中学で俳人・水原秋櫻子と同級となり、のち京都府立医学専門学校に進学して医業の道へすすむ。卒業後は上海・東亜同文書院の校医を務め、帰国して郷里・秩父の国神村で医院を開業、のちに皆野町へ移転した。俳号「伊昔紅」は「我も昔は紅顔の美少年」の意である。
当地に伝わる盆踊り歌「皆野盆歌」は、半即興で卑猥な歌詞や振りが多く、公の場での踊りを官憲が禁じる状況にあった。伊昔紅は「堂々と踊れる秩父の民謡」を掲げ、古い踊りの型を踏まえつつ歌詞を公募し、自らも作詞して再生事業に着手する。昭和4年(1929年)には「秩父豊年踊り」として明治神宮へ奉納され、のちに「秩父音頭」と呼ばれるようになった [3]。スマートでありながら素朴な心情が歌と踊りに現れ、今日では小学校で教える地元民謡として定着する端緒となったとされる。また、秩父音頭の歌詞は「2000年前から伝わる元歌」に手を加えて再興したものと伝えられ、その功績を讃えて、美の山公園(秩父市・皆野町)に銅像が建てられている[4]。
俳壇では、昭和6年に秋櫻子の新興俳句運動に呼応して秩父での活動を本格化。壺春堂(自院)に地域の青年を集めて月例句会を開き、主宰誌『若鮎』を拠点として俳人の育成に努めた。こうした動きは、潮夜荒や岡紅梓らが結成した「七彩会」へと広がり、のちに長男・兜太が「秩父の七人の侍」と称した面々を輩出する。活動は俳誌『雁坂』として結実し、昭和31年までに200号を数えて秩父俳壇を先導した。伊昔紅は『雁坂』廃刊に際し、会員の水準は高かったが「飽くまで地方誌として、初心者の鍛錬の場を提供することで満足していた」と述べ、中央進出より地域文化の醸成を重視する姿勢を明言している。石田波郷や加藤楸邨ら新興俳句の俳人とも交流があった。
家族では、長男の金子兜太(1919年9月23日生)がのちに俳壇で活躍した。日常に五七調が息づく家庭環境は、兜太が「俺は俳句だ」と言い切る背景ともなったとされる。金子病院は次男・千侍が継承し、千侍もまた加藤楸邨主宰「寒雷」の同人として俳句活動に関わった。こうして伊昔紅は、医業と俳句、そして民謡再生によって地域文化の核を形成し、秩父に革新的な文化運動をもたらした指導者として位置づけられる[5]。