金子泰藏
日本の教育者
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来歴
1904年10月23日、東京の浅草で生を受ける。旧制府立三中に進学し、卒業後、東京商科大学(現・一橋大学)に入学した。在学中に後の国連大使・加瀬俊一と知り合い、同じ語学クラブとして英語を学ぶことになる[2]。大学卒業後は東京商工会議所外国課長として貿易業務を行いながら、新設間も無い上智大学に出講し教授として英語を教えていた[3]。太平洋戦争の開戦に伴い当時満洲重工業開発傘下だった日本鉱業に移籍し、海外課長として海外調査の業務全般を行う[2]。
終戦後日鉱を辞しGHQに通訳者として入庁[4]。マッカーサーはを始めとしたGHQで出される経済に対する指令・命令の和訳を担当し、日米政財界への知己を作ることとなる。1947年に国民協同党に推される格好で千葉県知事選に出馬するも最下位で落選、翌1948年に船田享二に請われて昭和経済研究所理事長に就くと共に、GHQの専属通訳者を務めていた縁で日本の戦時賠償を担当する賠償庁参与官に就任する[2]。この年、GHQはそれまで禁止していた国旗掲揚を許可し、総理府の職員の険しい顔も笑顔に戻り金子の胸も熱くなったという。
教育者として
GHQで働いてる過程で金子泰藏は日本人の国際化の必要性を痛感[2]。昭和経済研究所で英語教材の刊行を手掛けていたが、これを拡張して予備校の一橋学院を1951年に創立。更に各種学校の一橋スクール・オブ・ビズネスも1963年に併設するが、世界と日本の距離を縮めるのは人材しかいないとし本格的に大学教育を始めることを決意する。教員は一橋大学を中心に集め、役員には一橋大学学長で文部大臣を務めた高瀬荘太郎、後に経団連会長となる稲山嘉寛、経団連副会長となる川又克二が受け入れ[2]、1965年、国際商科大学を創立。金子泰藏が初代学長兼教授に就任する。
1986年、大学名を東京国際大学に変えるように指示。
1987年5月17日、がんのため逝去。享年82。