川又克二
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茨城県東茨城郡上大野村大字吉沼(現在の水戸市吉沼町)に生まれる。川又家は、昔はこの集落の庄屋のような家柄だった。明治になって子供がいなかったので、旧水戸藩士の田辺家から養女を迎えた。これが母錦(きん)である。母が17歳のとき、同じ土地の丹下という家から父の操(みさお)が養子にきた。父は水戸の専売局の太子出張所に勤める一役人にすぎず、いわば半農半勤の家計だったので、母は慣れない農事に精を出しながら、しだいに田畑を手放していかざるをえなかった。[3]
水戸中学校、京北中学校を経て1929年旧制東京商科大学(一橋大学の前身)卒業。内池廉吉ゼミ出身。
1929年、のちに頭取となる大学同期の中山素平とともに日本興業銀行(現在のみずほ銀行)に入行するが、程なくして歩兵第3連隊に応召し、陸軍主計幹部候補生に合格。同じ候補生に山本高行がいた。ある時、陸軍主計学校を見学したあとに帰隊を怠り、査問会議にかけられる事になった。当時の連隊長は永田鉄山中佐であり、「諸子はいやしくも高等教育を受けた者たちである。こんな事がいいか悪いかぐらいは分かっているだろう…」と優しく諭す口ぶりに、これは偉い軍人だ、と感心したという[4]。一年間の軍隊生活を経て復職するが、客への対応が横柄という理由で管理課へと左遷されてしまう[5]。そこでの2年間の忍従を経て、鑑定課、大阪支店長代理に抜擢される。
1941年8月30日、再度召集され、宇都宮陸軍病院新川分院に配属される。同郷の司令部主計少佐の計らいで都内配属に転じ、月島の防空第4連隊を経て独立高射砲第1大隊に配属される。当初は10号埋立地で魚釣りに興じるなど呑気な生活であったが、東京大空襲で部隊が壊滅し、5月に新潟に転じる。日本曹達二本木工場に一個中隊が配属されており、妙高温泉の同社専用旅館で終戦を迎えた[6]。
11月に復員後、日本興業銀行融資事業部長、同広島支店長等を経て、1947年日産自動車常務取締役就任。同専務を経て1957年同社長。1959年日産ディーゼル会長兼務、1967年日本自動車工業会初代会長、1969年日本自動車研究所理事長[7]。1973年日産自動車会長。1983年から日産自動車相談役。経団連の副会長も務めた。