金教献
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生涯
救国運動
救国運動の一環策で 1909年に呉基鎬ら同志10人と一緒にソウル斎洞で<檀君大皇祖神位>を祀る<檀君教佈明書>を公布したのが檀君教の嚆矢である。1年後、大倧教と改称する一方(信徒数2万名余へ増加)、北間島に支社を設置したが1914年には本社をその所に移して布教領域を満洲一帯まで広げた。
ここに脅威を感じた日本は1915年10月<宗教統制案>を公布して弾圧を露骨化し、教壇の存廃危機に逢着した。羅喆は翌1916年8月15日に九月山三聖祠で日本の暴政を痛嘆する遺書を残して自決した。
2代教主になり、総本司を東満洲の和竜に移転させた後、弘範規則を公布する一方、汪清県に秘密結社団体重光団を組織して、三・一独立運動後には、武装独立運動団体北路軍政署へ発展させ、1920年に青山里戦闘では大戦果をあげた。日本は報復として翌年に大討伐作戦を展開して幾多の教徒を無差別虐殺し、金教献は痛憤のあげく病死した。
3代教主になった尹世復は、日本の圧力を受けた吉林省長張作相によって大宗教布教禁止令が出されると、総本司を昔の渤海の首府東京城に大宗学院を設立して大宗教書籍刊行会を発足させて『三一申告』、『終止講演』などを刊行した。しかし天殿建立を急ぐ中1942年11月に尹世復外20人の幹部が朝鮮独立を目的にした団体構成と言うのは罪目で日本警察に検挙され、拷問で獄死した[1]。
金教献の歴史観
著書
- 《神檀民史》 - 1904年
- 《神檀実記》 - 1914年
- 《弘巌神兄朝天記》