1937年7月31日、平壌での愛国団体時局懇談会の共同組織者を務めた[8]。また、平壌商工会議所の会頭も務めたため、平壌で多くの親日協力活動を行ったと見られる。ただ、その時の金は平壌有数の資産家で、戦時中に資産、地位、身辺安全などのために協力しなければならないという事情があり、根本的な精神は親日ではないという評価もある[9]。1948年の民族政経研究所が出した『親日派群像』でも尹致昊と一緒に取り上げられ、「自発的に出て誠心で活動した者」とした上、「親日と戦争協力が正しくないと知っていても、自分の財産または地位の保全、身辺の安全などのために行った者」に分類された[10]。