金田千鶴
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長野県下伊那郡泰阜村平島田の庄屋の家に生まれ、長野県立飯田高等女学校(後の長野県飯田風越高等学校の前身校の一つ)に学ぶ[3]。卒業後に飯田町の寺に嫁いだが、程なくして離婚し、上京して帝国女子専門学校(後の相模女子大学の前身)に学ぶ[3]。
在学中に『アララギ』の選者であった岡麓と知り合い、師事する[3]。
1924年、小学校時代の教師だった彫刻家の倉沢興世と再会し、恋愛関係となるが、程なくして結核に罹患し、帰郷することとなった[3]。
帰郷後も作歌を続け、1929年には『アララギ』の準同人となり、自然や人間関係を主題としたもののほか、昭和恐慌下で困窮する山村の姿を捉えた「社会詠」も手掛けた[3]。さらに、小説も手掛け、1931年には文芸誌『つばさ』に「霜」[1]と「夏蚕時」[2]の2編を発表した。
金田千鶴は、1934年に、結核のため満31歳で死去したが、8年間ほどの活動歴の中で、短歌800首あまり、小説2編、文学ノート2冊を残し、「病歌人」、「相聞歌人」、「社会詠歌人」などとも称された[4]。