金胎寺城 (富田林市) From Wikipedia, the free encyclopedia 城郭構造 連郭式山城天守構造 なし築城主 楠木正成?築城年 14世紀前半(鎌倉時代末)?logo金胎寺城(大阪府)城郭構造 連郭式山城天守構造 なし築城主 楠木正成?築城年 14世紀前半(鎌倉時代末)?主な城主 佐備氏、甲斐庄氏廃城年 16世紀後半(戦国時代末)?遺構 曲輪指定文化財 なし再建造物 なし位置 北緯34度27分23.7秒 東経135度35分8.8秒 / 北緯34.456583度 東経135.585778度 / 34.456583; 135.585778地図 金胎寺城 テンプレートを表示 金胎寺城(こんたいじじょう)は、大阪府富田林市にあった日本の城。 伝承では楠木正成によって築城され、その際に山頂にあった金胎寺を西麓の嬉に移転したと伝えられる。現存する城郭の遺構は、山頂付近の主郭と周辺尾根上の曲輪からなる連郭式山城であり、使用最終段階にあたる戦国時代末期の様相をよく留める。 金胎寺山は尾根の稜線に沿って行政界線が設定されており、城郭は山頂の東側が大字甘南備、西側が大字伏見堂、山頂から西に伸びる尾根の一部が大字嬉に属する。西麓の嬉からは登山道が整備されており、山頂まで至ることができる(地図 - Google マップ)。 歴史 伝承では、正慶元年(1332年)[1]もしくは元弘年間(1331年~1334年)[2]に、楠木正成が築城し、佐備氏が依ったとされる[2]。また、正平年間(1346年~1370年)に、楠木正儀・和田正武らによって築城されたとも言われる[3]。これらの伝承により、楠木七城[4]や、楠公十七支城[2]のひとつに数えられる。 史料としては、畠山義就が嶽山城に籠城した際、『新撰長禄寛正記』寛正2年(1461年)に「金胎寺と嶽山両城に兵をこめ」とあるのが初出である[5]。翌寛正3年(1462年)4月に金胎寺で合戦があり[6]、金胎寺城は天険の要害であったため、寄せ手の泉州勢を散々に打ち破ったという[7]。しかし義就方は寡兵であり[7]、また寄せ手の筒井勢の計略もあって、同年5月に金胎寺城は落ちた[8]。義就は嶽山城から没落し紀伊に逃れたが、文正元年(1466年)9月に壷阪寺を経由して金胎寺城に入り、押子形城(もしくは升形城。烏帽子形城とされる)を落とした[1][9]。 義就は事実上の守護として南河内を支配し延徳2年に病死した後は、嫡男の畠山基家があとをついだ。明応2年(1493年)、将軍足利義材や畠山政長が河内を攻めると、基家は誉田(高屋城)に籠城し、基家方の甲斐庄氏などが金胎寺城に入った[10]。 出典・脚注 1 2 『河内長野市城館分布調査報告書』pp.43-45 1 2 3 『富田林市誌』 ↑ 『河南の枝折』p.176 ↑ 「金胎寺山(城山)登り口」案内板 ↑ 『富田林市史 第二巻』p.227 ↑ 『大乗院寺社雑事記』寛正3年4月12日条(『富田林市史 第四巻』p.124) 1 2 『新撰長禄寛正記』(『富田林市史 第四巻』p.125) ↑ 『大乗院寺社雑事記』寛正3年5月16日条(『富田林市史 第四巻』p.124) ↑ 『富田林市史 第二巻』p.234 ↑ 『富田林市史 第二巻』p.256 関連項目 楠木七城 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles