金載圭
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来歴
生い立ち
慶尚北道善山(現・亀尾市)出身。八人兄弟の長男として生まれた。父親は実業家で、当時としては珍しく非常に裕福な家庭で育った[4]。安東農林学校、陸軍士官学校、漢陽大学校大学院政治外交科卒[5]。第二次世界大戦中は日本名の金本元一を名乗り、特別幹部候補生第1期(航空整備)出身の整備兵として日本陸軍に従軍。陸軍航空部隊の第1錬成飛行隊にて四式戦闘機「疾風」のハ45の教育を受けていた。
朴正煕とは同郷で、国防警備隊士官学校では同期生であるが、9歳年下。1950年3月、少領(少佐)に昇進して第3師団第22連隊第2大隊長[6]。朝鮮戦争では浦項の戦いなどに参加している。第5師団参謀長、第36連隊長を経て、第3師団副師団長となる[6]。1957年8月、第1軍司令官宋堯讃中将に部隊状況を報告した際に、宋堯讃から「第1軍傘下にこのような無能将校がいるのか。24時間以内に包みを包んで軍を去れ」と侮辱的な叱責を受けて退役しようとするが、この報を聞いた李鍾賛に引き留められ陸軍大学学生監督官となる[7]。後に准将昇進と同時に陸軍大学副総長。この時の総長金桂元とは後々まで親しく付き合い、朴正煕暗殺の瞬間までともに居合わせることとなった。
1961年に5・16軍事クーデターが起きた時には国防部総務課長だったが、クーデターに加担しなかったために革命軍に連行され調査を受けた[6]。否定事実が無かったため釈放され、湖南肥料社長に任命される[6]。1963年9月、原隊復帰して第6師団長に任命[6]。1965年1月、少将に進級、第6管区司令官を経て、1968年に保安司令官に任命される[6]。1971年9月、第3軍団長。1973年、予備役編入。
朴正煕に縁故人事で引き立てられて立身出世し、1973年に中央情報部次長、同年の第9代総選挙で国会議員に当選した[2]。1974年9月18日に建設部長官に就任。
1976年10月24日、韓国政府がロビイストの朴東宣を通じて米国の議員や公職者に対し数百万ドルを賄賂として提供していたことが、ワシントン・ポストのスクープにより発覚した(コリアゲート)[8]。同年11月27日、駐米韓国大使館参事官で、KCIAの実質的な米国活動組織副責任者だった金相根(キム・サングン)が米国に亡命した[9]。この亡命事件により、12月4日にKCIA部長の申稙秀が解任され[8]、金は後任の部長に就任した。
朴正煕暗殺事件
1979年10月16日から17日にかけて、釜山大学と東亜大学の学生と市民が釜山市内で大規模なデモを行った。政府は18日午前0時を期して釜山一円に非常戒厳令を宣布し[10]、空挺部隊を投入してデモを鎮圧した。10月20日、釜山に隣接する馬山市でもデモが行われ警官隊と衝突した。政府は同日、馬山及び昌原一帯に衛戍令を発動した[10]。デモの対応として金は穏健策を訴えるが、警護室長の車智澈が提唱した強硬策が朴大統領に採用された[11]。
同年10月26日夜、ソウル特別市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にあるKCIA所有の安全家屋(略称:安家)[注 1]の宴会場で、金は朴と車智澈警護室長を射殺した[14]。同月28日、合同捜査本部長の全斗煥により逮捕された[2]。
軍事裁判にかけられた金は、射殺の理由について、前述の釜馬民主抗争の影響を挙げた。金は路上で1万人以上の市民が声を上げて戦う現場を目撃していた[15]。金は軍法会議の過程で、暗殺の理由について「自由民主主義を回復し、デモが全国に拡大した場合に発生するたくさんの犠牲を未然に防ぐため」と述べた[16][15][17]。
1980年1月28日、内乱目的殺人および内乱未遂罪により死刑判決を受け、同年5月24日にソウル拘置所で絞首刑に処された。54歳没。遺言の最後には「国民の皆さん、民主主義を満喫してください」という記述がある[18]。
死後
2016年になって朴槿恵大統領と崔順実の関係露呈(いわゆる崔順実ゲート事件)によって、金載圭の弁護人が控訴審で動機の一つとして「崔太敏氏の疑惑について朴正熙大統領に進言したが、聞き入れなかった」と述べていたことが発覚した[19]。実際に、崔太敏と朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこないという噂があり、中央情報部長だった金が情報報告を朴正煕大統領にしたため朴大統領が二人を呼んで直接訊いた。朴槿恵は崔を心酔して積極的に擁護し、崔は『私たちは霊的な家族や夫婦のようなものであって、肉体に関する浅ましい話はしてくれるな』と言った。この話を朴正煕大統領が聞いて納得し、金に対して『情報を上げるならしっかりしろ』と言っていた[20]。
2020年5月、金の妹など遺族は「金載圭という人物に対する歴史的な議論の水準が進化して飛躍する契機になることを望む」として、ソウル高裁に再審を請求した。2025年2月19日、ソウル高裁は金の内乱目的の殺人容疑に対する再審を開始することを決定した[21][22]。
評価
朴正煕暗殺事件の真相や動機については謎が残るが、韓国では、一時的な精神錯乱の暗殺者という評価と、18年の長きにわたった軍事独裁政権に終止符を打った民主化運動の愛国者という全く正反対の評価がある[要出典]。
2004年、民主化補償審議委員会によって金による朴暗殺が民主化に寄与したか否かが議題として上ったが、全斗煥によるクーデター、並びに後の独裁を招いたとの指摘もあり、最終的な結論に至っていない[23]。
民主化運動家、神父の咸世雄は2012年のインタビューで、「金はわれわれ民族全員の恩人」「33年経った今も、国民と歴史家が金部長の真意に気付かなくて、とても残念だ」と言った[24]。
2016年の崔順実ゲート事件以降、金に対する再評価の機運が高まり、彼を「義士」と呼ぶ人および金の墓に献花する人も現れた。彼の名誉回復を掲げるある団体はソウル特別市永登浦区の公園にある朴正煕の銅像の隣に金の胸像を建てるという旨で募金運動も行った[25]。特に2004年当時、再評価に反対していた歴史学者の韓洪九も2013年に金を安重根、尹奉吉、李奉昌、金九と並ぶ「保守右翼義士」に分類した上「金の義挙は自由民主主義の回復に至らなかったとしても、女性芸能人が大統領の飲み会に呼び出される事だけは確実に途絶えた」と評価し[26]、2016年になると金を「朴正煕の忠臣として全力を挙げて崔太敏を止めようとした」と好意的な態度を示した[25]。
民青学連事件により投獄された元国会議員の李哲は「10・26義士38周忌合同追悼式」に参加した際、民青学連事件が発生した後、金は自分の善山学校の後輩である高校教師に「民青学連事件の関連者たちはとても正しいことをした。共産主義とは何の関係もない」と言ったことを伝え、金を追悼した[27]。
エピソード
関連作品
- 映画
- 『ユゴ 大統領有故』(2005年) - ペク・ユンシクが金載圭を演じている。
- 『KCIA 南山の部長たち』(2020年) - イ・ビョンホンが金載圭をモデルとしたキム・ギュピョンを演じている。
- 『大統領暗殺裁判 16日間の真実』(2024年) - ユ・ソンジュが金載圭をモデルとしたキム・ヨンイルを演じている。
- 『1026: 새로운 세상을 위한』(2026年) - 金載圭と朴正熙暗殺事件を題材とするドキュメンタリー映画。一部再現ドラマを含む[29]。タイトルは「1026: 新しい世界のための」という意味。
- テレビドラマ