鈴木善幸内閣
日本の内閣
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内閣の顔ぶれ・人事
国務大臣
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 鈴木善幸 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
自由民主党総裁(西村裁定で選出) | ||
| 法務大臣 | 奥野誠亮 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
再入閣 | ||
| 外務大臣 | 伊東正義 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
第2次大平内閣で大平の急死のため
内閣総理大臣臨時代理を務めた | ||
| 園田直 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
厚生大臣から移動 1981年5月18日任 | |||
| 大蔵大臣 | 渡辺美智雄 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
再入閣 | ||
| 文部大臣 | 田中龍夫 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
再入閣 | ||
| 厚生大臣 | 斎藤邦吉 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
再入閣 1980年9月19日免 | ||
| 園田直 | 衆議院 自由民主党 (無派閥) |
再入閣
1980年9月19日任 | |||
| 村山達雄 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
再入閣 1981年5月18日任 | |||
| 農林水産大臣 | 亀岡高夫 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
再入閣 | ||
| 通商産業大臣 | 田中六助 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
再入閣 前筆頭副幹事長 | ||
| 運輸大臣 | 塩川正十郎 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
初入閣 | ||
| 郵政大臣 | 山内一郎 | 参議院 自由民主党 (鈴木派) |
初入閣 | ||
| 労働大臣 | 藤尾正行 | 衆議院 自由民主党 (福田派) |
初入閣 | ||
| 建設大臣 | 斉藤滋与史 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
初入閣 | ||
| 自治大臣 国家公安委員会委員長 |
石破二朗 | 参議院 自由民主党 |
初入閣 1980年12月17日免(病気) | ||
| 安孫子藤吉 | 参議院 自由民主党 |
初入閣 1980年12月17日 | |||
| 内閣官房長官 | 宮澤喜一 | 衆議院 自由民主党 (鈴木派) |
再入閣 | ||
| 総理府総務長官 沖縄開発庁長官 |
中山太郎 | 参議院 自由民主党 (福田派) |
初入閣 | ||
| 行政管理庁長官 | 中曽根康弘 | 衆議院 自由民主党 (中曽根派) |
再入閣 | ||
| 北海道開発庁長官 国土庁長官 |
原健三郎 | 衆議院 自由民主党 (中曽根派) |
再入閣 | ||
| 防衛庁長官 | 大村襄治 | 衆議院 自由民主党 (田中派) |
初入閣 | ||
| 経済企画庁長官 | 河本敏夫 | 衆議院 自由民主党 (河本派) |
再入閣 | ||
| 科学技術庁長官 原子力委員会委員長 |
中川一郎 | 衆議院 自由民主党 (中川G) |
再入閣 | ||
| 環境庁長官 | 鯨岡兵輔 | 衆議院 自由民主党 (河本派) |
初入閣 | ||
内閣官房副長官・内閣法制局長官・総理府総務副長官
政務次官
1980年(昭和55年)7月18日任命。
内閣の動き
先代の第2次大平内閣は、伯仲国会の中、宏池会(大平派)と七日会(田中角栄派)の主流派、倒閣を仕掛ける党内の反主流派、小党分立する野党の三勢力に分かれていた。1980年5月16日、野党が提出した内閣不信任案に対し、反主流派が反対投票を欠席したことによりよもやの可決、急遽行われた衆参同日選挙の選挙戦の最中に大平が急死する。選挙の結果は自民党の大勝に終わり、中でも主流派であった田中・大平両派の側の勢力が増す。更に両派の中でも、大平亡きあとは田中と並び立つ実力者が不在になったため、この時をもって、田中による政界支配が確立することになった。後継の首相には、田中の後押しを受け、宏池会のナンバーツーであった鈴木が就任。田中の影響力の非常に強い政権運営が行われるようになる。政権の人事では、田中・鈴木の両派に加えて政策科学研究所(中曾根康弘派)が主流派に加入し、ニューリーダーの渡辺美智雄が蔵相で遇された。
- 主な政策と出来事
- 行財政改革…第二次臨時行政調査会を発足させ、行政改革および政府予算の抑制(増税なき財政再建)を掲げた。
- 財政再建…鈴木政権では、政権を差配している田中元首相の意向により、歳出の大幅拡充(いわゆるバラマキ政策)の圧力が予想された。一方の大蔵省は、戦前の野放図な軍事予算拡張への反省から、予算規模の縮小を是としていた。田中らの予算拡大圧力を前にして大蔵省は、予算概算要求枠の制度を発展して、分野ごとに予算額の上限を設定(シーリング)。山口光秀官房長が主導し、田中らの政治勢力と渡り合った[1]。
- 外交…鈴木はハト派の外交スタンスであったため、安保面での躓きをみせた。1981年5月、ロナルド・レーガン米大統領との日米共同声明における「日米同盟」という語を巡り、鈴木の「軍事同盟という意味を持たない」という発言が物議をかもし、外務省内では米国側との協議の上で「同盟には軍事的側面はあるものの新たな軍事的意味を持つものではない」との見解を発表、首相の発言を修正する。首相の頭越しの外務省の行動について閣僚から批判の声が上がり、5月16日、伊藤外相が責任をとる形で辞任した。