山内一郎
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| 山内 一郎 やまのうち いちろう | |
|---|---|
| 生年月日 | 1913年2月15日 |
| 出生地 | 東京府 |
| 没年月日 | 2005年3月6日(92歳没) |
| 死没地 | 東京都 |
| 出身校 | 東京帝国大学工学部[1]土木工学科 |
| 前職 | 建設事務次官 |
| 所属政党 | 自由民主党 |
| 称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
| 内閣 | 鈴木善幸内閣 |
| 在任期間 | 1980年7月17日 - 1981年11月30日 |
| 選挙区 |
(全国区→) 福井県地方区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1965年7月4日 - 1989年7月9日 |
その他の職歴 | |
|
(総裁:竹下登、宇野宗佑) (1988年 - 1989年) | |
山内 一郎(やまのうち いちろう、1913年〈大正2年〉2月15日 - 2005年〈平成17年〉3月6日)は、日本の政治家、建設官僚。参議院議員(4期)。位階は従三位。勲等は勲一等。山形県知事を務めた山内継喜は従兄[2]。
1913年2月15日、内務省官僚の父・喜之助と母・小奈加(小松原英太郎の養女)の長男として、東京・麹町に生まれる[3]。父・喜之助は内務省・土木技師として、西日本の主要河川の改修工事に参画。大阪・神戸両港の築港にも参加し、工学博士の学位も取得するなど、当時の日本を代表する官僚の1人だった[3]。
幼少期に、父の転勤により兵庫県姫路市に移住。城東小学校卒業後、姫路中学を受験するが失敗[3]。そのため、1年間の浪人生活を経て、同中に入学した[3]。卒業後は姫路高等学校理科甲類[4]を経て、東京帝国大学工学部土木工学科に入学。姫路高校時代、2学年上に河本敏夫、1学年下に渡海元三郎がいた[3]。
1936年に帝大を卒業すると、父と同じ内務省土木科に入省[1]。同年に父が54歳で急死する[5]。
1938年に応召され、日中戦争に従軍[5]。召集解除後の1941年2月に、蒲孚次女・貞子と結婚するが、同年9月に再招集され、小笠原諸島の防衛に1年間従事[5]。さらに1944年に3度目の召集を受けるが、上司の岩沢忠恭の尽力により1週間ほどで除隊となる[5]。その後は国土局の職員として、防空対策に尽力した。
戦後は、経済安定本部への出向を経て、内務省の後進である建設省に入省[5]。伊勢湾台風の際は、各地の破損堤防をわずか45日で復旧させるなど、その手腕を発揮した[5][6]。1963年に建設事務次官に就任[5]。
1965年、小山長規(建設相)や松沢雄蔵らの勧め[2]により、建設省を退官し第7回参議院議員通常選挙全国区に自由民主党から出馬し初当選。党内では宏池会(前尾-大平-鈴木-宮沢)に所属。
1977年参院選で父の生まれ故郷である、福井県選挙区から鞍替え出馬し3選。
1980年7月鈴木善幸内閣で郵政大臣に就任。1984年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲六等からの昇叙)[7][8]。1988年竹下執行部で党参議院議員会長に就任。1989年7月参院選で落選して引退。引退後も党紀委員会委員を歴任。
2005年3月6日、心室細動のため東京都の病院で死去[9]、92歳没。死没日をもって従六位から従三位に叙される[10]。
選挙歴
| 当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 得票順位 /候補者数 | 比例区 | 比例順位 /候補者数 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 当 | 第7回参議院議員通常選挙 | 1965年7月4日 | 全国区 | 自由民主党 | 631,770 | 16/99 | - | - | ||
| 当 | 第9回参議院議員通常選挙 | 1971年6月27日 | 全国区 | 自由民主党 | 537,255 | 41/106 | - | - | ||
| 当 | 第11回参議院議員通常選挙 | 1977年7月10日 | 福井県地方区 | 自由民主党 | 220,399 | 49.9 | 1/3 | - | - | |
| 当 | 第13回参議院議員通常選挙 | 1983年6月26日 | 福井県選挙区 | 自由民主党 | 188,838 | 55.1 | 1/4 | - | - | |
| 落 | 第15回参議院議員通常選挙 | 1989年7月23日 | 福井県選挙区 | 自由民主党 | 205,668 | 46.7 | 2/3 | - | - | |
| 当選回数4回 (参議院議員4) | ||||||||||