鈴木真一 (写真家)
1835–1919, 写真家
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略歴
1835年(天保6年)7月、伊豆国賀茂郡岩地村(現・静岡県賀茂郡松崎町)の高橋家の三男・勇次郎として生まれる[2]。20歳で下田の商人・鈴木家の娘婿となる[2]。鈴木家は下田屈指の資産家だったが、安政の大地震で商売が駄目になり、蚕紙製造業を始めるも、結局真一が横浜に出ることとなる[2]。
1866年(慶応2年)横浜に出て下岡蓮杖に師事する。独立して1873年(明治6年)に横浜弁天通に鈴木真一写真館を開業、弟弟子だった岡本圭三を娘婿に迎え、2代目鈴木真一を名乗らせる。
鈴木写真館は評判を呼び、宮内省の注文を受けて皇居内に出入りを許され、1874年に北白川宮、小松宮を撮影、1877年には第一回内国勧業博覧会にて皇族の肖像写真その他を出品し、花紋章を受章[3]。
1881年に九段に支店を開き、米国留学から帰った娘婿の岡本圭三に任せ、真一は1884年に横浜真砂町に新たに2階建ての白い洋館の写真館を建てて移転し、主に外国人の撮影を行った[3]。陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発し、外国人向けに日本の風景や風俗写真を焼き付けた陶磁器を販売したり、風景や人物の合成写真をハテナ写真と名付けて人気を得るなどして横浜本店、九段支店ともに大成功を収めた[4]。鈴木写真館は宮内省御用掛となり、1889年には英照皇太后、昭憲皇后の専属の写真撮影を命じられた[4][5]。
1896年に隠居し、二男の伊三郎を嗣子として家督を譲り、鈴木真一を名乗らせ、自身は鈴木真と改名[6]。
1902年には、女性写真師を養成する学校を作っている。写真合成の技術開発のほか、10数年にわたる研究の末、陶磁器に写真を焼き付けることに成功、着色写真と合わせて輸出港横浜を訪れる外国人客の人気を博した。
家族
- 実父・高橋文左衛門 ‐ 伊豆国賀茂郡岩地村の半農半漁[2]
- 姉・文 ‐ 子に依田佐二平、依田勉三。[7]
- 養父(岳父)・鈴木与七 ‐ 下田の質・荒物商人「大阪屋」[2]
- 妻 ‐ 与七の長女
- 妾 ‐ 不明
- 妻・おきん
- 妻・西郷美遠子(1839-1915) ‐ 西郷近思の六女。真一とは再婚(1873年)。[7]
- 三男・四十(よそ、1874-1928) ‐ 真一40歳の時の子。英国グラスゴー大学卒業後、米国フィラデルフィアのボールドウイン工場の製図室に勤務、1901年に帰国し、横浜の英国系商社セール・フレーザー商会に勤めたが、グラスゴー大学で先輩だった高峰譲吉に誘われて高峰商事に転職し、譲吉の病死で同社社長に就任した。自ら設計した小石川小日向台町の洋館で、妻ジェシー(英国時代の下宿屋の娘で日本名・英子)と3人の子、真一夫妻とともに暮らしていたが、1921年に離婚し、妻子はカナダに移住した。[7][6][8]
- 三女・四二子(よにこ、1876-) ‐ 真一42歳の時の子。陸軍士官・三原三郎の妻。4人の子を儲けたが出産時に新生児とともに急逝。遺児たちは継母から疎外され、新聞に「連隊長家の継子いじめ」の風刺漫画として報じられた。[7][8]
女子写真伝習所
女子美術学校の写真学科増設に賛同したものの計画が見送られたため、1902年に弟子の河村勇次とともに牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立した[9]。明治期において、同校は女性に写真術を教える唯一の教育機関であり、女子写真学校とも通称された[10][9]。2年制の本科の入学資格は尋常小学校を卒業した満14歳以上とし、写真技術のほかに普通科の授業も履修、また経験者対象の研究科や2ヶ月修了の速成科のほか、まとまった通学時間が取れない場合の随意科が用意された[10]。月謝は1円、その他実費が2、3円かかるところ、経済的に苦しい学生対象に奨学制度を設けること、写真館の就職には修正の技術者が求められ、女性の雇用が期待できると鈴木たちの学校を紹介した編者は述べている[10]。女子の入学者が少なかったため、男子の入学も認められた[9]。