鍾伝
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経歴
はじめ旅商人を生業とした。王仙芝の乱のために江南が混乱に陥ると、鍾伝は人々に推されて長となり、高安鎮撫使を自称した。王仙芝が柳彦璋を派遣して撫州を攻めて陥落させると、鍾伝は撫州を奪回し、撫州刺史に任じられた。中和2年(882年)、鍾伝は江西観察使の高茂卿を追放し、洪州を掌握した。僖宗により江西団練使に抜擢された。まもなく鎮南節度使・検校太保・中書令に任じられ、潁川郡王に封じられた。さらに南平節度使に転じた。危全諷が撫州で離反したため、鍾伝は撫州を包囲した。夜間に城中で火が起こったので、諸将はこれに乗じて攻めるよう勧めたが、鍾伝は「君子は人の危難に迫らない」といい、地を掃って天を祭り、火が消えるように祈った。危全諷はこれを聞いて、鍾伝に降った。鍾伝は子の鍾匡時を袁州刺史として、馬殷を攻撃させた。また彭玕を吉州刺史とした[3][2]。
淮南の楊行密に攻撃を受けると、鍾伝は宣武軍節度使の朱全忠に救援を求めた。朱全忠が朱友恭を派遣して、楊行密の軍を武昌で撃破させたので、洪州は小康を取りもどした。天祐3年(906年)、鍾伝は死去し、その子の鍾匡時が後嗣に立てられた。ほどなく楊行密に敗れて、洪州は呉に編入された[4]。