若い頃から仮父に従軍して、戦功を挙げて諸軍都指揮使・建康左僕射となった。さらに汝州刺史を授かり、検校司空・都虞候に任じられた。
892年に、泰寧軍節度使の朱瑾(天平軍節度使の朱宣の従弟、または同母弟)が朱宣の命を受けて、徐州で朱全忠・朱友裕父子に包囲された武寧軍節度使の時溥の救援に向かった。これを聞いた朱全忠は朱友裕に2万の軍勢を与えて、朱瑾を迎え撃たせた。石仏山で激戦の末に朱瑾が敗走すると、朱友恭は氏叔琮(中国語版)とともに、朱友裕が故意に朱瑾を見逃したと朱全忠を批判した。これを聞いて激怒した朱全忠は朱友恭の兵権を剥奪しようとした。この時の使者が誤って朱友恭ではなく、朱友裕のもとに朱全忠の書信を渡した。これを見た朱友裕は不安になったが、これに対して、朱友裕の嫡母の張夫人(末帝の朱友貞の生母)が手を差し伸べて、誤解を解くために継子の朱友裕を懸命に助命したので解決されたが、それ以降、朱全忠は朱友恭を疎み始め、忌み嫌うようになった。
光化初年に朱友恭の郷里である寿州(淮南地方)に反乱が起こり、反乱軍によって鄂渚が陥落されると、朱全忠は朱友恭に数万の軍勢を与えてこれを討伐させ、朱友恭は龍沙・九江を鎮圧して大いに名を挙げた。
さらに、黄州を攻略して付近の城を陥落させて、賊将の瞿章を捕らえて数万の敵兵を捕虜とした。その帰還中の安州を経て、突如に安州刺史の武瑜を襲撃してこれを殺害して、その民を傘下に収めた。この戦功で、朱友恭は潁州刺史に累進し、検校司徒となった。
天祐初年、唐の昭宗が長安から洛陽に遷都すると、左龍武都統に任命され、右龍武都統の氏叔琮とともに宮中を護衛した。
904年、朱全忠は昭宗の監視をその朱友恭と氏叔琮に任せ、その一方で腹心の枢密使の蒋玄暉と参謀の李振を派遣し、朱友恭らと昭宗の暗殺の計画を練った。朱全忠は以前に自分を誹謗した朱友恭を破滅させようと機会を伺っていたのである。その結果、刺客の史太が昭宗を暗殺した。間もなく朱全忠は昭宗の棺の前で平伏して「陛下を弑したのは仮子の友恭の仕業であります。この私が責任を取って、友恭と氏叔琮を誅いたします」と大袈裟に慟哭し、そのまま朱友恭と氏叔琮に罪を着せた。翌905年にそれを知らない朱友恭らは昭宗の元皇太子で徳王の李裕ら数人の兄弟の殺害に関わったという。同時に長安で朱友恭の軍勢が略奪行為をしたため、この機会を狙った朱全忠は彼らを逮捕して、投獄した。やがて朱友恭は仮子を解かれて、元の李彦威に戻されて、爵位と官職と兵権を剥奪された挙句に、崖州司戸として左遷すると発表され、間もなく長安で処刑された。
『新五代史』が引く張廷範の言によると、李彦威(朱友恭)の最期の言葉は「この俺を捨て駒にして、天下の誹りを回避しようとしたのだ。鬼神よ!いかんせん、このような行為をして、朱家の子孫が存続すると思うのか?」と叫んだという。同時に氏叔琮も白州司戸に左遷と発表され、朱友恭と共に処刑された。