鎌原重澄 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 不詳死没 天正3年5月21日(1575年6月29日)官位 筑前守[1] 凡例鎌原 重澄時代 戦国時代生誕 不詳死没 天正3年5月21日(1575年6月29日)官位 筑前守[1]主君 斎藤憲広→武田信玄→勝頼氏族 鎌原氏父母 父:鎌原幸重妻 海野幸光の娘子 重春テンプレートを表示 鎌原 重澄(かんばら しげずみ)は、戦国時代の武将。上野国吾妻郡鎌原郷(現・嬬恋村)の国衆。鎌原城主。 父は鎌原宮内少輔幸重。吾妻郡西部の三原荘は鎌倉期に海野幸氏が地頭として入部し、戦国期には鎌原氏を含め湯本・羽尾氏ら国衆が三原荘の各地を支配していた[2]。また、吾妻郡東部の吾妻斎藤氏が勢力を伸ばし、鎌原氏ら三原荘の国衆は吾妻斎藤氏の同心となっていたという。 鎌原氏は所領が隣接する羽尾氏と所領問題を巡って対立し、永禄3年(1560年)10月には羽尾道雲とそれを支援する斎藤憲広らに鎌原城を攻められ、重澄の父・幸重は降伏したという(『加沢記』)[2]。翌年(1561年)11月から武田信玄の西上野侵攻が始まると吾妻斎藤氏から離反して武田氏に従った。後に吾妻斎藤氏も武田氏の従属国衆となり、信玄より斎藤憲広へ鎌原氏から横領した所領を返還するよう申し付けられたが、憲広は返還を拒否している。このため重澄は信濃国海野領で替地を与えられている[3]。 永禄5年(1562年)5月には大戸浦野氏を武田氏に従属させており、武田氏への取次を務めている[3]。 永禄6年(1563年)憲広や羽尾道雲などが武田氏から離反し、上杉氏に従属した。しかし、憲広の一族の斎藤弥三郎の裏切りにより没落した際、岩下城に置かれていた家中衆の人質を確保し、三枝虎吉とともに同城在番を務めた[3]。 永禄7年(1564年)には憲広らに横領されていたとみられる所領について改めて宛がわれている[3]。 その後は岩櫃城将となった真田氏の相備えとなった。 天正3年(1575年)2月22日、信玄は武田氏家臣の赤見山城守の欠落した被官を現在の主人に断って召し返すよう人返し令を出し、翌日に分国諸役所へ富田主計の荷物を通過させた。このことに信玄は重澄、浦野真楽斎、和田新介それぞれに書状を出した[3][4]。同年5月21日の長篠の戦いで戦死した[1]。 脚注 1 2 柴辻俊六『真田昌幸』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、11頁。ISBN 464205202X。 1 2 久保田順一「滋野三氏と羽尾領・鎌原・草津谷」『戦国上野国衆辞典』戎光祥出版、2021年。 1 2 3 4 5 黒田基樹「鎌原筑前守」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。 ↑ 笹本正治『真田三代』ミネルヴァ書房、2009年。 参考文献 久保田順一『戦国上野国衆辞典』戎光祥出版、2021年 柴辻俊六、平山優、黒田基樹、丸島和洋『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年 笹本正治、『真田三代』ミネルヴァ書房、2009年。 Related Articles