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長井政実

戦国武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

長井 政実(ながい まさざね)は、戦国時代の武将。上野・武蔵国境に拠った国衆。武蔵御嶽城主。上野三ツ山城主。

生誕 未詳
死没 天正18年(1590年)2月28日?
改名 平沢政実→長井政実
別名 左衛門三郎、左衛門尉、豊前守
概要 凡例長井 政実, 生誕 ...
 
長井 政実
生誕 未詳
死没 天正18年(1590年)2月28日?
改名 平沢政実→長井政実
別名 左衛門三郎、左衛門尉、豊前守
主君 長尾景長→北条氏康→武田信玄→勝頼→上杉景勝?
氏族 平沢氏→長井氏
妻 高山満重の娘(高山行重の姉妹)
子 昌繁
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生涯

出自

政実は元々、山内上杉氏家宰である足利長尾氏配下の国人・平沢氏の一族であり、足利長尾氏の被官だった[1]。政実は永禄3年(1560年)の上杉謙信による関東侵攻に従い、この際に『関東幕注文』にて「平沢左衛門三郎」の名前で確認できる[2][注釈 1]。

後北条氏従属下の動向

政実は遅くとも永禄8年(1565年)4月までに後北条氏配下の元で、同じく足利長尾氏被官で御嶽城主であった安保氏の家臣を継承して武蔵御嶽城主となったと考えられる[1]。

同10年(1567年)の武田信玄の駿河侵攻に端を発して武田氏と後北条氏の関係が悪化すると、同12年(1569年)6月に後北条方として上野国多胡郡に出兵し、武田方の小幡信尚や小幡織殿助を寝返らせた。これに対して武田信玄は北関東から後北条氏領国に侵攻し、9月9日には政実の御嶽城も攻められたが、陥落には至らず翌10日に武田軍は鉢形城の攻撃に移った。しかしその後も武田軍に御嶽城を攻められ、翌元亀元年(1570年)6月5日に政実は降伏し、武田氏に従属した。

武田氏従属下の動向

武田氏に従属した政実は、長井名字と豊前守の官途を与えられ、「長井豊前守政実」を名乗った。また従来と同じく御嶽城の安堵を認められ、引き続き御嶽城主となった。

しかし翌元亀2年(1571年)末に武田氏と後北条氏が再度同盟を締結すると、政実の処遇と御嶽城の所属を巡り両者で相論が起こった。1年あまりの調整の結果、翌3年(1572年)11月7日に御嶽城及び周辺の所領は後北条氏に割譲され、政実は上野国三ツ山城に退去し武田氏配下の従属国衆となることで決着した。これにより政実は御嶽城を失い、その替地として翌天正元年(1573年)11月20日に武田勝頼より玉村御厨内にて5000貫文の所領宛行をされた[3]。なお、三ツ山城に芦田信守が入り、政実は島名城に移されたとする伝承もあるが、天正7年(1579年)時点で島名周辺の所領が長井氏から宇津木氏に領主が変更されているため、実際には島名城への異動は行われなかったと思われる[4]。

同6年(1578年)の御館の乱に端を発して武田氏と後北条氏が再度戦争状態に陥ると、政実は旧領である御嶽領に進出し、被官の倉林氏や飯塚氏に所領宛行を行った[1][2][注釈 2]。

同10年(1582年)3月に武田氏が甲州征伐により滅亡し、没落したとみられる。

その後

武田氏滅亡後の政実は越後に逃れ、上杉景勝の家臣となっていた藤田信吉を頼ったと伝えられている。一方で、神流川流域において北条氏邦の直轄支配が始まるのは天正13年(1585年)以降であるため、滝川一益や後北条氏に従ってしばらくは所領安堵を受けていた可能性もある[4]。

子の昌繁(信実・実久・右衛門とも)は同18年(1590年)の小田原征伐で上杉軍の元で旧領の占領を果たし、三ツ山城の領有を認められたとされるが、この時に政実が参陣していたかは不明である[1]。忌日は同年2月28日と伝えられているが、三ツ山城回復後の同年7月1日に飯塚和泉守に所領安堵を行った文書が存在すること、「昌安」(もしくは「昌実」)の署名がある政実花押文書の存在から、天正18年7月以降に隠居して昌安もしくは昌実と称したと考えた方が妥当であるとする見解もある[4][5]。

子の昌繁は小田原征伐後徳川氏に仕え、上総国で所領を与えられた。

脚注

参考文献

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