安房水産高校ではエースとして1957年夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、佐原一高の城之内邦雄に抑えられ敗退。卒業後は社会人野球の永幸工場に進む。1961年の都市対抗に日本通運の補強選手として出場[2]。
1962年に東映フライヤーズへ入団[1]。投手としては伸び悩み、一軍では1試合登板にとどまる。1964年に外野手に転向し一軍に定着。翌年はラーカーの控えではあるが、一塁手として起用され27試合に先発出場。しかし翌年から大杉勝男が台頭、その後は主として代打として起用されるが、段々と出場機会が減り1969年限りで引退。引退後は東映興業のサラリーマンとなる。