延宝7年(1679年)1月、善可という僧が、原治左衛門に提出した宗門改請判の中に、
蘭(あららぎ)村
[1]の宗門改請判については、
寛文6年(
1666年)から
伊那郡の
飯田城下にある
善勝寺の了寶の弟子である
了善という者が行い、以来13年間勤めましたが、延宝7年(1679年)からは善可が勤めることとなりました。
という内容が記述されている。
この資料にある了善については、延宝5年(1677年)の「蘭観音堂」の史料に、
一、一向宗 信州飯田 高松山善勝寺 弟子 了全 家屋敷 八間拾間 但借屋 右ハ弟ノ地之内ニ罷有候
とある了全と同一人物であると思われる。
これによると了善は蘭村の出身で、弟の家を借りて居住していたようである。
善可の名は、その後、享保9年(1724年)の「信州筑摩郡蘭村検地帳[2]」にも記述されており、少なくともこの間は蘭村に居て法灯を守っていたことが分かる。
また「明治十二月十二日 真宗東派 更生寺院明細帳[3]」には、
とされる。
1877年(明治10年)7月24日、長延寺が所管の役所へ請願した結果、善勝寺の掛所[6]となって一段昇格した。
しかし蘭村の人々の善勝寺からの独立の思いは強く、深刻な騒ぎにまでなったが、1879年(明治12年)、ようやく長延寺は一箇寺として独立することができたが、この時の檀家150軒は、善勝寺の預かり檀家ということで妥協している。
なお、江戸時代以来、蘭村では、妻籠の光徳寺の檀家も多く、真宗大谷派の門徒と臨済宗の檀徒の両方が住んで居たが、1880年(明治13年)光徳寺の檀家72軒が、長延寺の檀家となって真宗大谷派に転宗したので、現在は蘭村の大多数が長延寺の檀家となっている。
1950年(昭和25年)、名実ともに善勝寺から独立し、檀家は長延寺の所属となったが、この時には裁判に持ち込まれて紛糾した。