長春真人西遊記
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概要
西遊の背景
1210年代、モンゴル帝国の侵攻を受けた金朝は各地で敗戦を重ね、特に1214年(貞祐2年)に首都を開封に遷して(貞祐の南遷)以後は、河北地域は事実上の無政府状態となって極度に治安が悪化した[2]。12世紀半ばに成立したばかりの全真教は、「真行」という人々の苦しみを除く行為を重視しており、この混乱期に慈善活動によって信者を広げていた[3]。
このため、当時第五代掌門であった丘処機(長春真人)は華北地方で大きな影響力を有するようになっていた[3]。1214年秋には山東地方で紅襖軍と呼ばれる反乱軍が起こったため、僕散安貞が討伐を任じられるも、登山・寧海の平定に苦戦した[3]。そこで長春真人が仲介に入って投降を呼びかけたところ、みな干戈を捨てて投降したという[3]。
このような長春真人の名声を聞いて、金朝は1216年(貞祐4年)に、南宋は1219年(嘉定12年)に、それぞれ長春真人を招こうとしたが、長春真人はこれをいずれも断った[4]。一方、当時モンゴル高原にいたチンギス・カンもまた長春真人を招こうと考え、1219年5月に劉仲禄を使者として派遣し、劉仲禄は燕京を経て同年12月に長春真人の下に到着した[5]。劉仲禄と面会した長春真人はすぐにチンギス・カンの招きを受け入れ、旅立つことを決意したという[6]。
長春真人の西遊
1220年(興定4年)正月18日に長春真人は出発し、2月には燕京に到着し、当初はチンギス・カンが東方に戻ってくるのを待とうとしたという[7]。その後、同年10月にすぐに遠征先の本営まで来るようにとの勅があったため、改めて西方に向けて出発した[8]
長春真人はモンゴル高原、中央アジアを経由して1222年(元光元年)4月にチンギス・カンの本営(オルド)に到着した[1][9]。チンギス・カンとの面会の際、チンカイの通訳を通じて「長生の薬」について聞かれ、「衛生の道はあるが、長生の薬はない」と答えた逸話は、耶律楚材の『玄風慶会録』によって後世に伝えられている[1][10]。
長春真人は1223年(元光2年)3月にチンギス・カンの本営を発ち、1224年(正大元年)3月に燕京に到着した[11]。1227年(正大4年)に長春真人は死去したが、チンギス・カンに直接面会して布教を認められたことは全真教の地位を高め、モンゴル帝国統治下における全真教教団発展の礎となった[11]
西遊記の編纂
長春真人の没後、教団の掌門は西遊に同行していた李志常らに継承された[12]。1228年秋、李志常は長春真人との旅で得た、山川・道里の険易、水土・風気の差殊、衣服・飲食・百果・草木・禽蟲の区別といった知見を知らしめるため、現在『長春真人西遊記』と呼ばれる書を編纂した。
しかし本書はその後あまり流伝せず、清朝の1795年(乾隆60年)に銭大昕が『道蔵』中に収められた本書を紹介して以後、広く知られるようになった[1]。現在では王国維が校訂を行った『蒙古史料校注四種』所収の『長春真人西遊記』2巻が広く用いられている[1]。
13世紀初頭にモンゴル高原・中央アジアを旅行した漢人の記録としては『西遊録』『西使記』『北使記』などもあるものの、『長春真人西遊記』が最も文量も豊富で、観察・記述ともに正確であり、高く評価されている[13]。
日本においては岩村忍の訳注があり、モンゴル帝国史研究者にも多く引用されている。