長田重雄
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1856年(安政3年5月)、上州(現・群馬県)館林の藩士、林太夫の長男として生まれる[5]。
8歳で、渡邊龍介に儒学と入木道(書道)を学んだのち、求道館に入り、杉四郎に師事し漢学を学ぶ。その後、朝枝静軒に英学を学ぶなどし、明治2年に洋学校が設立されると生徒となるが、生徒長に推挙され、明治3年に教授に推薦さた[5]。 1871年(明治4年9月)、廃藩とともに洋学校が廃校となるが、安藤豪鐡とともに子弟に英学を教えた[5]。
1874年(明治7年)、県からの命により東京に出るが、公務の傍ら、菁莪学舎、共慣義塾、同人社、東京英語学校で学んだほか[5]、築地の立教学校(立教大学の前身校の一つ)で学ぶ[3][6]。
1876年(明治9年)に大病となり、群馬に帰郷し、農業に従事するが、再び朝枝静軒に学ぶ。朝枝は地域から洋医学を絶やさぬために、長田重雄と佐々木に医学を学ぶことを勧めた[5]。 それを受け医学を志すと、1877年(明治10年)、醫科大学(東京大学医学部)に入学し、1881年(明治14年)12月に醫学全科を卒業すると、翌1882年(明治15年)2月に、熊本醫学校(旧制熊本医科大学の前身)教諭に就任。同年3月には、地方医術開業試験委員に任命される[5]。
1886年(明治19年)、熊本県の漢医家が設立した春雨醫学校の教授に嘱託され、1887年(明治20年)4月、熊本醫学校教諭に任じられた[5]。
1888年(明治21年)3月、内務省令に基づき甲種醫学校が廃止されると、熊本醫学校を辞職し、東京へ移り、同年7月、醫科大学第一醫院(現・東京大学医学部附属病院)外来診察掛補助、第一醫院小児科勤務となった[5]。
1889年(明治22年)4月、醫科大学の職を辞して、東京市浅草区馬道町1丁目で民間救済のために活動する[5]。
1890年(明治23年)11月、チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)の要請から、京橋区船松町13番地に「愛恵病院」(英:Tokyo Dispensary)を開設し、院長に就任[2][7][8]。
1891年(明治24年)9月に、東京市浅草区黒船町(現・台東区駒形)で浅草聖ヨハネ教会の初代礼拝堂が竣工し、同月27日に司式ウィリアムズ主教、説教テオドシウス・ティング長老により聖別されるが、この当時は同教会の信徒として名を連ねた[9]。
1892年(明治25年)2月に警視庁嘱託医に任命された。重雄は特に小児科に長けていたが、性格が温良で寛容なことが理由でもあった[5]。
1896年(明治29年)6月13日、愛恵病院は築地居留地37番(立教大学校校舎跡地)に移り、名称を『築地病院』(英:St. Luke's Hospital)に改称する[2][7]。この場所は当時の住所の記載として、東京築地新栄町7丁目37番地と記された資料もある[10]。
当時、築地病院では1万人ほどの種痘(天然痘の予防接種)も行っており、京橋区だけでみても千人以上の予防接種を施していたが、院長の長田重雄は浅草区担当の市医にも任命された[11]。
1899年(明治32年)秋、内務省の侍医員に召され侍医局に入るため、やむなく築地病院を閉鎖し、院長を辞任する[2][4][12][7]。共に働いていた金子医師も、新開地で開業するために辞任し、ウィリアムズ主教の後継者であるジョン・マキム主教は、米国聖公会本部に厳しい病院の現状を訴え、宣教医師の派遣を要請した[7]。(要請を受けて、翌1900年2月に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが来日し、1901年2月に築地病院のあった築地居留地37番に築地病院の後身となる「聖路加病院」〈現:聖路加国際病院、英:St. Luke's Hospital〉を開設された[2]。)
重雄は、侍医局では明治天皇の担当医を務めたが、明治天皇は『長田重雄は第一の臣下である』と仰ったと重雄の娘らにより伝えられている[4]。
脚注
- ↑ 『東京医会年報 大正9年度』1頁,東京医会 編,東京医会,大正10-12
- 1 2 3 4 5 『聖路加病院はいつ誕生したか ―築地外国人居留地の歴史に関連して―』 川崎晴朗,筑波学院大学紀要第13集,241頁-254頁,2018年 (PDF)
- 1 2 『立教学院八十五年史』12頁,1960年
- 1 2 3 4 『聖恩(せいおん)の軌跡をたずねて 長田重雄とは』 2025年6月21日
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 『明治医家列伝 第4編』長田重雄先生の傳,152頁-154頁,近藤修之助 等著,近藤修之助,明25-27
- ↑ 『立教大学同窓会会員名簿 : 創立80周年記念』立教学校及旧立教大学校々友-明治22年迄,立教大学同窓会,1955年
- 1 2 3 4 『築地の外国人住宅 : 聖路加国際病院の付属外国人住宅「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告 (中央区文化財調査報告書 ; 第1集)』108頁-111頁(聖路加国際病院の歴史年表),東京都中央区教育委員会社会教育課 編,中央区教育委員会,1992年3月
- ↑ 『日本聖公会史』255頁,元田作之進,普光社,明43.10
- ↑ 『浅草に召されて : 浅草聖ヨハネ教会百年史』11頁-14頁,日本聖公会浅草聖ヨハネ教会百年誌編集・出版委員会 編,日本聖公会浅草聖ヨハネ教会,1986年12月
- ↑ 『基督教名鑑 明治30年調査』23頁,教文館,明30-32
- ↑ 『教界評論 (52)』34頁,有信社,1897-04
- ↑ 『築地の外国人住宅 : 聖路加国際病院の付属外国人住宅「ポラバ・バンガロー」に関する調査報告 (中央区文化財調査報告書 ; 第1集)』23頁,東京都中央区教育委員会社会教育課 編,中央区教育委員会,1992年3月
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