長谷部照俉
From Wikipedia, the free encyclopedia
埼玉県出身[1][2][3]。祖父・長谷部十七吉(1819(文政2年)-1899(明治32年))は、埼玉県児玉郡本庄町(現在の本庄市)に住んでいた刀鍛冶だったが、明治維新の際、廃刀令が出されて刀の需要がなくなったので、廃業して一人娘のはん(実母)と、養子としてきた実父・万作(坂本家)は養蚕業を始めた[4]。照俉は養蚕業の長男として生まれた[4]。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業[1][2][5]。翌年3月、歩兵少尉に任官し歩兵第2連隊付となる[1][5]。1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業した[1][2][3]。 1911年(明治44年)12月、歩兵大尉に昇進し歩兵第2連隊中隊長となる[1]。陸士教官を務め、1913年(大正2年)3月、陸軍委託学生として東京外国語学校露西亜語専修科を修了した[6]。同年12月、ロシアに留学し、1914年(大正3年)9月、ロシア軍に従軍[1]。1917年(大正6年)4月、参謀本部員に転じ、1918年(大正7年)6月、歩兵少佐に進み1919年(大正8年)3月まで浦塩派遣軍参謀としてシベリア出兵に出動[1]。1920年(大正9年)5月、歩兵第41連隊大隊長に就任し、1922年(大正11年)8月、歩兵中佐に昇進し第5師団参謀となる[1]。支那駐屯軍参謀を経て、1925年(大正14年)8月、第16師団司令部付として京都帝国大学服務(配属将校)となる[1][3]。1926年(大正15年)3月、歩兵大佐に進んだ[1][3]。
1927年(昭和2年)5月、歩兵第37連隊長に就任[1][3]。1931年(昭和6年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第3旅団長となり満洲事変に出動した[1][2][3]。1934年(昭和9年)3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
著書
- 『旬刊 講演集 NO.455、第15巻、第5号、ソ連邦を中心とする国際情勢』東京講演同好会、1937年。
- 『四股をふむロシヤの今昔』改造社、1939年。
- 『動乱欧州を衝く : 独乙の欧洲新秩序建設』誠文堂新光社、1941年。
