閔泳玖
From Wikipedia, the free encyclopedia
1909年7月21日、ソウル鍾路に父の閔済鎬と母の申淑英との間に長男として生まれる[1]。先祖は文科に及第し、政権の要職を務めたが、閔済鎬は伝統学問を学ぶのではなく、アメリカ人宣教師のアンダーウッドが設立した儆新学校と官立漢城英語学校で近代教育を修学した。これは士大夫家の婦人で進明女学校の家事教師として勤務した経験のある母(閔泳玖の祖母)の李憲卿の影響と考えられた。伝統ある名家であったが、新式教育を通じて近代的思考を持った祖母と父がいた点、児名がモーゼだった点から、閔泳玖は裕福で開化的な環境で成長したと推測される[2]。
1910年8月、日本の植民地支配を受けると、閔済鎬は兄弟と共に爵位を拒否し、教育・文化事業に尽力したが、同年冬に独立運動のため中国北京に亡命した。閔済鎬は、1911年に上海で申圭植や朴殷植などと交流して同済社に加入して活動を広げた。閔泳玖は三・一運動後に祖母と母、弟の閔泳琬と共に上海に渡った[3]。
上海に到着すると、閔泳玖は仁成学校に入学[4]。1923年7月、仁成学校卒業。中国人学校の遠東中学校を経て、1926年7月15日、上海の民間商船会社である和豊公司に練習生として就職し、公司所属の春和輪で練習生生活を始めた。春和輪は上海を中心に就航していた1,765トン級汽船であり、閔泳玖は乗務員として上海一帯を行き来し、物資輸送を担当した[5]。
商船会社を辞めて尚賢堂商業専科学校に入学するが、経済的理由で学業を続けることができなかった。国立武昌中山大学経済学科に入学して1学期を修了した後、南京の第四中山大学商学院に無試験で進学することを模索した。そのために直接大学に書簡と自己紹介書を送り、南京で唯一の韓国人団体である留寧韓人革命同志会を通じて公文を発送した[6]。しかし武昌中山大学が厳格な審査を通じて学生を募集したか分からない点、大学在学期間が短い点、入学しても授業についていくのが難しい点から、大学側から進学を拒否された[7]。
上海に戻った閔泳玖は大学進学を諦めて商船士官になることにし、1927年9月に上海萬国航海学校航海科に入学した。理論教育2年、乗船実習1年の教育課程であった。自身が練習生として勤務していた和豊公司で乗船実習することになり、1928年12月20日から6か月間春和輪で3等航海士代理として勤務し、1929年5月10日から同会社の時和輪で2等航海士代理として勤務して乗船実習を無事に終えた[7]。
1929年7月、航海学校を卒業すると、和豊公司に入り、同年11月10日から1,765トンの中和輪の2等航海士代理として勤務した。1930年8月に正式な士官として入社し、9月1日から1933年8月9日まで春和輪の2等航海士として勤務。8月9日から9月21日まで中和輪で1等航海士を務めた。再び春和輪に戻り、1934年12月31日まで勤務した。士官として勤務する一方で、1933年7月6日に中華民国交通部国際電信局が発行する船舶無線2等報務員資格証、1934年1月19日に中華民国交通部が発行する乙種航海士免許を取得した[8][注釈 1]。
1934年12月31日から1935年1月11日まで華商輪公司の海華輪、1935年1月28日から1936年1月20日まで和豊公司の通和輪、1936年2月27日から10月12日まで民新公司の華平輪、1936年10月12日から1940年6月12日まで民新公司の長泰輪で1等航海士として勤務した[9]。
商船士官として活動しながら、大韓民国臨時政府とも連携しており、臨時政府で開催される各種行事に出席した。これは叔父の閔弼鎬が上海と杭州の電報局に勤務し、1934年からは南京交通部の職員として働き、書信による連絡を取ることができたためである[10]。
1939年2月に結成された韓国光復陣線青年工作隊に妻の李国英や義兄弟の李充章、李充哲と共に参加し、演劇部で活躍した[11]。
日中戦争が勃発して南京が陥落すると、日本の軍艦が中国大陸に深く入ることを阻止する揚子江封鎖作戦が行われた。砂利と砂を積んで馬当砲台前に沈めることで日本軍艦が揚子江に侵入することを防ぐもので、中国国営会社の上海招商局と民間商船会社の商船18隻が動員され、当時長泰輪で勤務していた閔泳玖もこの作戦に参加した。この他にも漢口と南京間の航路を就航しながら、国民革命軍の軍需品と将兵の輸送に参加した経験があった[12]。
1940年1月19日、中華民国交通部乙種船長免許を取得し、同年6月13日から長泰輪の船長として活動した[12]。
1940年10月、光復軍が創設されると、総司令部主計将校[13]、西安総司令部暫定部署経済組組員[14]を歴任[注釈 2]。韓国青年戦地工作隊が編入されるなど韓国人青年の参加で組織と兵力が拡大・発展すると、総司令部総務処に勤務した。光復軍の機関誌である『光復』に「シンガポール軍港の解剖」「日本海軍はどこに侵攻するのか」「民主政体と極権政体」を翻訳して掲載した[15]。
1942年12月24日、臨時政府財務部員。
1943年3月30日、臨時政府財務部主計科長。
1944年6月1日、臨時政府財務部生計科長。
1944年6月12日、臨時政府内務部警務科員。同年7月4日に開催された国務会議で国務委員會秘書処書記に選任。
1944年10月、光復軍総司令部参謀処第2科員。
第2次世界大戦終戦後はすぐに帰国せず中国で活動した。1945年11月1日、臨時政府は中国内の韓僑の生命と財産を保護するための駐華代表団を設置した。駐華代表団は臨時政府を継承し、中国内の同胞保護と韓籍士兵処理問題を扱う公式機構として大使館と同じ役割を果たした。駐華代表団は中央部署と傘下機構で構成され、中央部署は団長と代表傘下に秘書処、教務処、軍務処、総務処が置かれ、傘下機構には華北、華中、華南韓僑宣撫団と光復軍総司令部が置かれた。団長は朴賛翊、代表は閔弼鎬と李青天が任命され、閔泳玖も代表団に参加した[16]。
最初は臨時政府要員の帰国を助け、後に臨時政府関連の残務処理、臨時政府所有の建物と土地の処理、重慶居住韓国人と臨時政府職員、家族の帰国業務、重慶居住韓国人の生活費調達業務、光復軍帰国関連業務、韓僑宣撫団関連業務などを推進した。1945年11月から閔弼鎬と共に韓国人の帰国業務に尽力した。中国の様々な機関に韓国人に関連する問題を処理するための協力を求め、受け入れられた韓国人の食糧と生活問題を解決するために努力し、船舶委員会に要請して汽船を通じて韓国人の帰国を助けた。この活動は1946年7月まで続いた[17]。このような活動の中で秘書主任の金恩中と共にベトナム皇帝のバオ・ダイを歓迎する宴会に出席したこともあった[18]。
1946年7月、重慶で任務を完了すると、金恩中と共に家族や代表団職員を率いて南京に向かった。南京では駐華代表団が整備され、華北、華中、華南の各宣撫団が廃止され、東北総弁事処に改編された。処長は華北宣撫団団長を務めた李光が任命され、閔泳玖は総務に選任された。組織改編と共に韓国独立党中国総支部が結成され、総務と南京区党部委員長代理となった[18]。
1948年、中国国民党が中国共産党に敗れ、同胞の帰国もほとんど終えると、帰国の準備に入った。同年5月初め、閔泳玖は駐華代表団職員とその家族26名を連れて集結地である天津に移動した。そして5月6日に米国船舶のKBMQ-10号に乗り、5月9日に仁川港に到着した[19]。兄の閔泳珍の家に居を構え、朝鮮民族青年団に参加して李範奭の補佐をしていた[20]。孫元一の勧誘で海軍に入ることを決意した[21]。
1948年11月4日、海軍将校特教隊第3次に入隊[22]。
1949年2月1日、海軍少領に特別任官(軍番80444番)して仁川警備府司令官[22]。
1949年10月、指南号引受団に選抜され、同僚10名と共に指南号の引受を成功させた。元々はワシントン号と呼ばれるシアトルで試験船として活動していた船舶で、韓国に引き取られてからは指南号に改称され、韓国初の遠洋漁船となった[23]。
1949年12月24日、釜山警備府司令官[24]。釜山警備府は海軍基地の1つで慶尚南道一帯の海岸警備と海上守護を担当し、本来は釜山海軍基地であったが、1950年4月15日、大統領令第100号海軍基地設置令第7条第1項により基地から警備府に昇格した[25]。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。釜山港は解放以前から日本による海上物流システムが構築された場所であり、米国と国連軍は海上・陸上輸送の橋頭保とした[25]。1950年6月25日から7月13日まで、墨湖警備府、浦項警備府、第2艇隊と共に東海岸防御及び封鎖作戦に参加し、北朝鮮艦艇によるゲリラ部隊上陸を阻止し、国連海軍と共に東海岸海上統制権の確保に寄与した[26]。7月1日から2日の李承晩大統領護送作戦では、大統領一行が墨湖警備府第3艇隊所属のYMS-514艇で釜山に向かうことの報告を受けると、慶尚南道知事に連絡を取って部隊警備を徹底した[27]。海軍本部港務官として国連軍の軍需物資や兵力輸送の責任を負い、この功労からブロンズスターメダルを受章[28]。
1951年9月26日、海軍本部艦政局長(中領)[29]。艦政局は海軍所属艦船の建造・修理・保船・その他艦船に関する事項を担当する部署であった[30]。
1951年12月23日、西海戦隊司令官[31]。西海戦隊は西海で作戦中の艦艇を統合して創設された部隊で、閔泳玖は1952年5月4日まで部隊を率いて西海岸地域の島嶼防衛・警備作戦を指揮した[30]。1951年10月以降、北朝鮮軍は西海岸一帯に陣地を構築し、韓国軍が占領した島嶼地域を威嚇して増援を通じて島嶼地域を奪うための奇襲攻撃が頻繁に行われた。これに韓国海軍は国連海軍と連合して北朝鮮軍の侵入を防ぐための警備作戦を強化し、機雷除去などの活動を行った。しかしこの過程で当時西海岸一帯の海上封鎖作戦と警備作戦を主導していた英国海軍との摩擦が発生した。
1950年6月29日に参戦を決定した英国海軍は、戦争期間中、主に西海岸一帯で活動し、戦略島嶼防御に注力した。それによって1950年7月、英国海軍のアンドリュース(W. S. Andrews)少将が西海岸支援分隊司令官に任命され、米海軍を除く全ての国連海軍を指揮・統制できるようになった。西海岸全域で英国海軍が国連軍所属海軍を統率する権限を持つようになったが、作戦区域は北緯37度以北の海域は英国及び国連海軍が担当し、37度以南の海域は韓国海軍が担当した[32]。当時、英国海軍が作戦の主導権を持っている状況で、韓国海軍は英国及び国連海軍と連合して警備作戦を遂行し、敵機雷除去、遊撃部隊支援、情報収集活動、海上砲撃などで支援した。しかし潮汐干満の差が激しく水深が浅い西海岸一帯の作戦は比較的小型の韓国海軍艦艇が主導的な役割を果たすしかなく、また戦略島嶼の確保と防御においても実質的な占領は韓国海軍が担当する状況であった。このような作戦過程において指揮権の不明確性は指揮系統の混乱をもたらしたと思われ、特に北緯37度を基準に連合・単独作戦が並行し、混乱と葛藤が深まったと見られた[33]。
韓国海軍はこの問題を収拾するため西海戦隊を編成した。初代司令官に閔泳玖が任命されたのは、中国で船員や光復軍として活動した経歴から英語を通じた意思疎通に精通していることや国際情勢についての広い理解などによるものと推測される[34]。西海戦隊司令に任命された閔泳玖は西海岸海域の警備作戦を力強く推進した。青洋島、席島、喬桐島付近で韓国軍・国連軍の遊撃隊員の情報収集のための奇襲上陸を支援し、英国海軍との連合作戦を通じて北朝鮮軍船舶を沈没させた。1952年4月から開始された忠武作戦では、江華島と甕津半島を中心に長山串北方から木徳島に至る主要島嶼を警備する任務を指揮した。徳洞・海州湾戦闘と昌麟島奪還作戦を主導し、鎮南浦と梧里浦方面の北朝鮮軍に艦砲射撃を加えて混乱に陥れた。それだけでなく延白地区の北朝鮮軍と中共軍を撃退する成果をあげた[34]。
1952年5月5日、海軍本部艦政局長[29]。
1953年2月21日、駐アメリカ韓国大使館付海軍武官(大領)[35]。
1956年、海軍本部作戦参謀副長。金冠五将軍と共に李鍾賛の陸軍士官学校入学を支援した[22]。
1959年4月1日、海軍士官学校校長。1950年代中後半から士官学校設置法施行令に対する議論がなされ、施行令に適した基本学期制と教科目選定のための教科課程の樹立が推進された。法学通論と第2外国語科目が新設され、本格的な施行令公布に先立って基本学期制も施行された。しかし1958年9月4日、大統領令第1385号で士官学校設置法施行令が正式に公布されると、新たに要求される事項が現れた。閔泳玖は海軍士官学校発展のため、これらの変化に対処していった。生理学概論及び理工学課程履修に要求される函数論などの教科目を新たに制定し、現実に合わせて基本学期制の一部を変更・施行した[36]。
閔泳玖は理論と実習が調和した教育を重要視し、校長在任中、実習関連科目が改善・拡充され、この代表的なものに沿岸実習、工廠実習、海兵教育が挙げられる。沿岸実習は本来艦上実習で初期から教科課程に編制された科目であった。閔泳玖は艦上実習を士官学校教科課程に附合するよう沿岸実習に置き換え、学校で学んだ知識を現場で直接活用できる環境を造成した。また工業実習科目も工廠実習に換えて教育を実施した。科目の特性に考慮し、実験実習と応用研究に比重を置き、実際体験中心の教育を実施した。これにより生徒は工廠で学んだ理論と知識を実際の体験を通じて習得することができた。最後に海兵実習教育を施行して校内で教育できない歩兵の基本火器と支援火器の分解結合・射撃術などを身に着ける機会を提供した[37]。
その他校長在任中、軍紀章制度を施行し、生徒の士気を振作し、自負心を植えた。軍紀章制度は当時生徒隊長であった金相道大領の着眼で施行されたもので、模範的な生徒生活と内務生活をする生徒に軍紀章を授与した。軍紀章を授与された生徒は左腕に金糸の徽章を付けることになるが、これは優秀な士官生徒の象徴であり、名誉の表象であった。この軍紀章制度は海軍士官学校だけの独特の伝統となった[37]。
1960年2月1日、校長として卒業班生徒の巡航訓練を直接指揮した。巡航訓練は海軍士官学校生徒の4年間の教育の総決算で、様々な国を順番に見聞を広げ、実際の海上での多様な訓練を通じて経験を積むことを意味した。友好国を訪問し、そこの生徒達と友好増進を図り、航海中に発生する航海術、射撃訓練、各種現場体験訓練をはじめとする多様な戦術訓練を実施する期間であった。2月1日午後2時、生徒をDE-71、DE-72の駆逐艦に搭乗させて鎮海港を出発した。実習目的は1か月間、南シナ海域と西南太平洋海域一帯で海上訓練を施行することであった。寄港地はベトナム、フィリピン、沖縄であった。訓練は昼夜行われ、高い波と船酔いで倒れる生徒もいたが、出向して4日後には1人の落伍もなく皆が訓練に参加する成果を収めた[38]。
1960年7月17日、少将で予備役編入[35]。
1970年代初めに一宇海運で顧問役を務めていた[35]。
1976年2月10日、永南化学顧問で在職中に大動脈動脈瘤により死亡[35]。