関天培

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関 天培(かん てんばい、1782年1月6日[注釈 1] - 1841年2月26日)は、中国末の武将は仲因、は滋圃。諡号は忠節。官は従一品広東水師提督に至った[2]

一兵卒から立身し道光年間の清朝において重きをなした。人望が厚く身分をこえて慕われたという。アヘン戦争において徹底抗戦して戦死し民族的な英雄として高く評価されている。その生き様はのちの曽国藩らにも影響を与えた[要出典]

1782年(乾隆四十六年)に江蘇省淮安府山陽県の軍人の家庭に生まれた。

林則徐によるアヘン禁止が布かれた際は、これに協力し虎門でアヘン処分を敢行。イギリスとの主戦論をいち早く支持した。阿片戦争(アヘン戦争)勃発後、康熙年間に築かれていた虎門要塞を拡充、整備。広東防備と強化を唱え、イギリス艦隊を迎え撃つ。道光21年(1841年)2月6日、チャールズ・エリオット率いるイギリス軍の精鋭部隊と抗戦。虎門の戦いでは凄まじい攻防のなか自らも虎門要塞で奮戦し、最期は攻めかかる敵軍の一隊をおびき寄せ、もろとも玉砕したと伝えられている。その戦いぶりに感銘を受けた敵軍イギリス艦隊(ブレンハイム号)は弔砲を鳴らし、その死を悼んだ[3][4]。淮安には碑があり、林則徐は書を贈ったという。

著作

文芸作品における扱い

映画

  • 林則徐 (映画). 中国. 1957.
  • 阿片戦争 (映画). 中国. 1997.林則徐の最大の理解者として描かれ、また出陣の際は自らの歯を抜歯して遺すようにと伝えた場面が登場する。

書籍

  • 辛易. 关天培. 江苏文艺出版社 
  • 黄利平. 关天培. 广东人民出版社 

脚注

参考文献

外部リンク

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