関政富

江戸時代中期の大名。備中新見藩3代藩主。新見藩関家4代。従五位下・播磨守。関長広の長男。子に関富矩(三男) From Wikipedia, the free encyclopedia

関 政富(せき まさとみ)は、江戸時代中期の大名備中国新見藩の第3代藩主。新見藩関家4代。官位従五位下播磨守

時代 江戸時代中期
生誕 享保8年3月22日1723年4月26日
または享保3年(1718年[1]
戒名 建徳院鳳山元輝大居士
概要 凡例関政富, 時代 ...
 
関政富
関政富像
時代 江戸時代中期
生誕 享保8年3月22日1723年4月26日
または享保3年(1718年[1]
死没 宝暦10年6月4日1760年7月16日
戒名 建徳院鳳山元輝大居士
墓所 東京都港区白金台瑞聖寺
官位 従五位下播磨守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治
備中新見藩
氏族 関氏
父母 父:関長広、母:岡氏
養父(実父とも):関長治
兄弟 政富、類
正室:松平親純の娘
長誠政辰富矩、浄願院、富昌安藤広峯室、岩瀬氏以養女(岩瀬氏紀室)、金森可英養女
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略歴

公式には第2代藩主・関長広の長男となっているが、初代藩主・関長治の次男とも言われており、定かではない[1]。享保8年(1723年)3月22日生まれとされるが、一説には享保3年(1718年)生まれともされる。

享保17年(1732年)、長広の死去により家督を継いだ。長広は病弱の上に暗愚であったため、藩政を混乱させたが、この政富は英邁で、自ら藩政を執った。そして藩校・思誠館を創設して庶民にも文武を奨励し、あるいは学資を補助するほどであった。また刑罰制度の整備を行なうなど、この治世期に新見藩は小藩ながら有能な人材を多く輩出し、全盛期を迎えた。政富自身も文化的に優れた人物であった。

宝暦10年(1760年)6月4日に死去した。享年38(または43)。跡を次男・政辰が継いだ。

系譜

  • 父:関長広(1694-1732) - 異説あり
  • 母:岡氏
  • 養父:関長治(1657-1738)
  • 正室:松平親純
  • 側室
  • 生母不明の子女
    • 三男:関富矩
    • 女子:浄願院 - 毛利就馴正室
    • 四男:関富昌
    • 女子:安藤広峯
    • 女子:岩瀬氏以養女・岩瀬氏紀
    • 女子:金森可英養女

脚注

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