関東申次
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沿革
関東申次には、初めは幕府側の私的な指名を受けて特定の貴族が就任していた。寛元4年(1246年)に九条道家が失脚した以後は、幕府による指名によって任命される正式な役職となり、源頼朝と婚姻関係(姪の嫁ぎ先)があった西園寺家当主による事実上の世襲となる。
承久の乱以後、原則として朝廷の重要事項の決定には関東申次を経由して幕府の許可を得ることになった。大覚寺統と持明院統による皇位継承争いの激化に伴って、皇位継承問題や宮中の人事の是非も関東申次の一存がその帰趨を握るようになり、その権威は大きくなっていった[1]。
だが、西園寺家当主の個人的関係(大覚寺統側との不仲)から次第に持明院統寄りの態度を取るようになると、大覚寺統は申次を無視して幕府との直接交渉を展開するようになり、14世紀に入ると求心力を失っていく。やがて、大覚寺統の後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼすと西園寺家への風当たりが強くなり、最後の関東申次であった権大納言西園寺公宗は謀反の疑いで処刑されている。