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近衛兼経

日本の公卿 From Wikipedia, the free encyclopedia

近衛 兼経(このえ かねつね) は、鎌倉時代前期の公卿。関白太政大臣・近衛家実の三男。官位は従一位・摂政、関白、太政大臣。藤氏長者。近衛家4代当主。通称は岡屋関白(おかのや かんぱく)。母は表向きには権中納言源雅頼(村上源氏)の女ということになっているが、実は兵部大輔藤原季定の娘。

時代 鎌倉時代前期
改名 兼経→真理(法名)
概要 凡例近衛 兼経, 時代 ...
 
近衛 兼経
『天子摂関御影、紙本着色』
近衛兼経(岡屋関白)
時代 鎌倉時代前期
生誕 承元4年5月4日(1210年5月28日)[1]
死没 正嘉3年5月4日(1259年5月27日)
改名 兼経→真理(法名)
別名 岡屋関白
墓所 京都府宇治市五ケ庄二子塚古墳前方部中腹
官位 従一位、摂政、関白、内覧、太政大臣
主君 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛家実
母:藤原季信または藤原季定の娘
兄弟 家通、家輔、兼経、長子、鷹司兼平、実静、慈禅、増忠、聖兼、聖実、澄誉
妻 正室:九条仁子(九条道家の娘)
隆慶の娘
子 宰子、基平、信昭、慈静、衣笠経平室、近衛兼教母
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経歴

貞応元年(1222年)に元服、正五位下侍従に任じられて昇殿禁色を許される。2年後に兄の左大臣・家通が急死したために後継者に立てられ、従三位権中納言となる。嘉禄3年(1227年)に内大臣、寛喜3年(1231年)に右大臣、嘉禎元年(1235年)に左大臣となる。嘉禎3年(1237年)、九条道家の娘・仁子を娶って長年不仲だった近衛家と九条家の和解に努め、同年に道家から四条天皇の摂政の地位を譲られた。暦仁元年(1238年)に左大臣を辞すが引き続き摂政を務める。翌年には従一位に叙せられる。仁治元年(1240年)、四条天皇元服・加冠のための太政大臣に任じられ、元服の儀が終わる翌年まで務めた。

仁治3年(1242年)、四条天皇が崩御すると後嵯峨天皇の関白に転じるが、西園寺公経の圧力によって二条良実にその地位を譲った(仁治三年の政変)。後に義父と共に関東申次に就任する。道家が失脚すると兼経も巻き添えで関東申次を解任されるが、ともに失脚した一条実経(良実の弟)の後釜を埋める形で寛元5年(1247年)に後深草天皇の摂政に再任される。建長4年(1252年)、異母弟の鷹司兼平に摂政を譲り、康元2年(1257年)に出家して法名を真理(しんり)と号して余生を宇治岡屋荘で過ごした。

日記に『岡屋関白記』がある。

官歴

注釈のないものは『公卿補任』による。

さらに見る 和暦(西暦), 月日(旧暦) ...
近衛兼経の官歴表
和暦(西暦) 月日(旧暦) 年齢 [注 1] 事項
貞応元年(1222年) 12月20日 13歳 正五位下に叙す
12月21日 侍従に任ず
貞応2年(1223年) 4月10日 14歳 右近衛少将に任ず
10月28日 右近衛中将に転任
12月17日 従四位下に昇叙
貞応3年/元仁元年(1224年) 1月23日 15歳 兼播磨権守
4月7日 従四位上に昇叙
12月17日 従三位に昇叙
12月25日 権中納言に任ず
嘉禄元年(1225年) 7月6日 16歳 権大納言に転任
9月7日 正三位に昇叙
嘉禄2年(1226年) 1月23日 17歳 従二位に昇叙
7月29日 兼中宮大夫
8月23日 正二位に昇叙
嘉禄3年/安貞元年(1227年) 4月9日 18歳 内大臣に任ず
寛喜3年(1231年) 4月26日 22歳 右大臣に転任
4月29日 兼左近衛大将
嘉禎元年(1235年) 10月2日 26歳 左大臣に転任
嘉禎2年(1236年) 2月30日 27歳 従一位に昇叙
嘉禎3年(1237年) 3月10日 28歳 摂政および藤氏長者宣下
仁治元年(1240年) 12月14日 31歳 太政大臣宣下
仁治3年(1242年) 1月20日 33歳 関白宣下
寛元5年/宝治元年(1247年) 1月19日 38歳 摂政宣下
康元2年/正嘉元年(1257年) 3月8日 48歳 出家(法名:真理)[2]
正元元年(1259年) 5月4日 50歳 薨去[2]
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系譜

近衛兼経像(高山寺蔵)

脚注

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