閻晋卿

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閻 晋卿(えん しんけい、生年不詳 - 951年)は、五代十国時代軍人本貫忻州[1]

代々の富豪の家に生まれ、若くして太原府に仕えて、官を歴任して客将に進んだ。劉知遠が太原府に駐屯すると、晋卿はすこぶる信用された。乾祐元年(948年)、閤門使・判四方館をつとめた。ほどなく趙思綰京兆府で反乱を起こすと、郭従義が趙思綰を討ち、晋卿はわずかな軍勢を率いて反乱軍の塁を攻めた。趙思綰の乱が平定されると、晋卿は内客省使となった。父が死去したが、晋卿は喪が明けないうちに前職に復帰した。ときに宣徽使に欠員ができたため、晋卿はその任を望んだが、長らく拝命できなかったため、宰相の楊邠を恨んだ。乾祐3年(950年)、李業らが楊邠や史弘肇を謀殺するにあたって、晋卿はその謀に参与した。晋卿は退出すると、史弘肇のもとを訪れて密告しようとしたが、史弘肇は会わなかった。晋卿は失敗を恐れて、夜の中堂に高祖劉知遠の肖像画を掛けて、その前で泣いて祈った。明け方遅くなって軍装戎服入朝。楊邠や史弘肇が殺害されると、晋卿は侍衛親軍馬軍都指揮使となった。11月21日(951年1月1日)、北郊の漢兵が郭威に敗れると、晋卿は家で自殺した[1]

脚注

伝記資料

参考文献

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