称徳朝の天平神護2年(766年)伊予国の人である従七位上・秦浄足ら11人が「阿倍小殿朝臣」姓を授かり、その際に浄足は以下を言上した。
- 「孝徳天皇の朝廷は、大山上の安倍小殿小鎌を伊予国に派遣して、朱砂(赤色の顔料)を採掘させました。小鎌はそこで、秦首の娘を娶って、子の伊与麻呂を生みました。伊与麻呂は父祖の氏を継がずに、秦首姓ばかりを名乗っていました。浄足はその後裔です」[1]。
翌天平神護3年(767年)4月2日の越中国司解に「正七位下行目阿倍小殿朝臣浄足」と署しており、同年11月16日の同国司解(「東大寺墾田地図目録帳」)に越中目、正七位上と署がある。この時は「調使」ともある。