阿野季綱
From Wikipedia, the free encyclopedia
父・公熈は応仁の乱の際に葉室光忠(室は公熈の従姉妹)とともに足利義視を支持し、母もかつて義視の寵愛を受けていたとされる事から、義視の子である足利義材が将軍になるとその信任を受けた。明応の政変の際にも義材に近侍していたが、京都に脱出している。
その後、明応7年(1498年)になって突然京都を脱出して越中国に亡命中の足利義材に合流し、東坊城和長に義材の改名の相談を持ち掛けるなど、京都の朝廷や公家との連絡係を務めている。
永正5年(1508年)に足利義稙(義材を改名)が京都に戻って将軍に復帰すると、その推挙によって同年7月16日に参議兼左近衛中将に任ぜられ、位階も従四位上に進められた。復帰後の季綱は義稙の為に朝廷や公家達との交渉を行ったほか、細川高国や大内義興に義稙の意向を伝えるなど、将軍側近の地位を得るに至った。