降倭
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文禄・慶長の役中の降倭
文禄・慶長の役中に降倭が発生した要因としては、劣悪な食糧事情[5]、過重な労役[6]、朝鮮朝廷による優遇策[7]などが挙げられる。
1594年(文禄3年)4月17日、接待都監の李徳馨(1561年 - 1613年)は次のように言及した。「倭兵(日本軍)の一回の食事は小さな器一杯の飯がすべてであり、その半分は皮付きのままであった。労役は過酷で空腹のため、降伏しようとする者が非常に多いという。」[8]
降倭の呂汝文は、「厚利を好む日本人を誘うことは容易である」として、「日本軍を誘引し、その手を借りて敵将を謀殺する計画を立てれば成功する可能性がある」と献策した。すなわち、敵を利用して敵将を暗殺する策を進言したのである。この際、呂汝文は朝鮮を「我が朝鮮(我朝鮮)」と表現していた[8]。
また、日本軍内部の統制問題も降倭発生の一因となった。とりわけ苛烈な将の配下では投降者が多く、加藤清正麾下の兵士にもその傾向が見られた。1597年には、降倭の世伊所・馬多時之を日本軍陣中へ送り返して内応を図った結果、加藤清正配下の軍官5名を帰順させることに成功している。[9] 帰順者らは「労役が過酷であり、将の命令もあまりに苛烈で耐えられず逃亡した」と証言した[8]。
また彼らは、「近頃、加藤清正は兵卒の信望を大きく失っており、日本への帰国を望む兵が日に100名に達している」と報告している。加えて、こうした投降者を厚遇した朝鮮朝廷の降倭優遇政策も、降倭増加の一因となった[8]。
朝鮮朝廷は降倭に対して厚遇策を採り、宣祖は投降した日本兵に対して僉知(正三品武官)・同知(三軍府従二品)などの高位官職を授与した[8]。
これには反対意見も存在したが、宣祖は1595年6月11日、「降倭のうち剣術に優れた者や兵器製作に長けた者を誘致できるなら、破格の褒賞を与えるべきである」と命じた。さらに1597年8月17日には、「現在、降倭のみが城壁に登って死力を尽くして敵兵を討っている」として、彼ら全員に堂上官(正三品以上)の職を授け、銀を下賜するよう命じている[8]。
降倭の俊沙も著名な人物の一人である。1593年に安骨浦で投降した俊沙は、鳴梁海戦(1597年9月16日)において李舜臣の旗艦に乗船していたとされる。戦闘中、俊沙は海上に落ちた日本兵の中から「模様入りの赤い絹衣を着た者」を敵将馬多時であると指摘し、これを受けて李舜臣はその首級を掲げて日本軍の士気を挫いたという[8]。
この俊沙が指摘した「馬多時」については、日本側武将来島通総(1561年 - 1597年)に比定する説が有力である[8]。
朝鮮式姓名への改名
彼らは時に朝鮮の姓と名を下賜されることがあり、[10] また長い年月の中で自ら朝鮮式の姓名へ改める場合もあった(姓の例として辛・呂・金など)。