鳴梁海戦

From Wikipedia, the free encyclopedia

鳴梁海戦

『会本太閤記』に収録された鳴梁海戦も
戦争慶長の役
年月日慶長2年9月16日1597年10月26日
場所:朝鮮国全羅道鳴梁渡
結果:朝鮮水軍の勝利[1][2]
交戦勢力
日本水軍 朝鮮水軍朝鮮語版
指導者・指揮官
藤堂高虎
加藤嘉明
脇坂安治
来島通総 

軍目付として毛利高政、当時の名乗りは友重

李舜臣
金億秋
安衛
戦力
先鋒(中型船数十隻)
本隊133隻

後方200隻以上
総兵数約7200人[3][4]

板屋船13隻
諜報線32隻小舟百隻
損害
31隻撃沈(『乱中日記』)[5]

約30隻破壊[6][7]

半数死傷[8][9]

艦船の損失なし[10][11]

戦死10名
負傷3名

鳴梁海戦(めいりょうかいせん)は、鳴梁渡海戦ともいい、豊臣秀吉慶長の役により慶長二年(1597年9月16日和暦/以下同)に陸に呼応して西進した日本水軍と[12]との間に起こった海戦である。李舜臣の指揮する朝鮮水軍は、日本水軍先鋒の来島勢に損害を与えた。兵力において朝鮮水軍は著しく劣勢であり、約13隻の艦船で多数の日本艦隊に対抗したとされる。日本側の兵力については史料により差異があるが、戦闘参加艦はおよそ120~133隻、総数では最大で約330隻に達したとする記録もあり、少なくとも10倍以上の戦力差が存在したとされる[13]

合計で日本側の軍船31隻が沈没または大破したとされる。日本水軍の指揮官の一人である藤堂高虎は戦闘中に負傷し、他にも多数の死者が出た[14]。この戦闘の結果、日本側は海戦において大きな損害を被った。

一方、当該戦闘が終了した後においても朝鮮水軍は依然として日本側より兵力で劣勢であったため、李舜臣は艦隊の補給および機動防御のための空間確保を目的として黄海方面へ後退した。さらに、当時は海が非常に荒れ、逆風も激しかったため危険な状況にあり、務安郡岩泰面に位置する堂社島へ陣を移して一夜を過ごした[15]

朝鮮水軍が茂水営から撤退している間に、日本水軍の活動により海南郡一帯は被害を受け、一部地域では火災が発生し住民が避難したと伝えられている。『乱中日記』には当時の状況に関連して、海南地域が荒廃した様子が記録されている。また、当該戦闘後に茂水営を離れていた李舜臣は約22日後に再び茂水営へ戻ったが、その際の日記には「茂水営に到着したところ、城の内外に人が住んでいた家は一つもなく、人の痕跡もなくて非常に痛ましかった」と記されている[16]

韓国では鳴梁大捷と呼ばれ、「李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦い」と認識されている。

文禄の役後、日本との間で続けられた和平交渉は決裂し再征が決定された。今回の作戦計画は、「全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道にも進撃すべきこと」、「これを達成した後は、慶尚道に撤収し仕置きの城(倭城)を築城して、在番以外の諸将は帰国すること」であった[17][18]

朝鮮王朝の宮廷内の分裂した政治状況に日本側の働きかけが加わった結果、李舜臣は弾劾され、処刑寸前にまで追い込まれた。最終的には拷問を受けたうえで平兵士へと降格された[19]。その後、李舜臣の政敵である元均が朝鮮水軍の指揮を執り、李の指導下で63隻から166隻へと増強されていた艦隊を引き継いだ[20]

元均は指揮能力に欠け、釜山の日本軍水軍拠点に対して無謀な作戦を繰り返し、朝鮮水軍の戦力を著しく消耗させた[20]:450漆川梁海戦において、日本水軍は藤堂高虎の総指揮の下で朝鮮水軍を圧倒し、これをほぼ壊滅させた[20]:462[21]。その後、日本軍は釜山および朝鮮南岸の諸拠点への増援を進め、再侵攻体制を整えた[20]:466

日本軍の主力は5月から6月ごろに渡海し、7月15日に漆川梁海戦で朝鮮水軍を大破すると、陸上でも左軍と右軍の二手に編成され全羅道に向かって進撃し、左軍は南原城(南原城の戦い)を8月15日に、右軍は黄石山城を8月16日に陥落させた(黄石山城の戦い)。続いて両軍が併進して8月19日全羅道の主府全州を占領すると、左右の諸将は一堂に会して会議を行い今後の作戦方針を定めた。その内容は、三手に分けた全軍をもって忠清道に進攻した後、加藤清正黒田長政毛利秀元(35,000人)は直ちに慶尚道に入って加藤・黒田の居城の築城を開始すること、その他の陸軍(78,700人)は全羅道に戻って未掃討の地を北から南へと掃討してゆくこと、これに呼応して水軍(7,000余)は全羅道沿岸を進撃する方針が決定した[22]

朝鮮水軍が事実上排除されたことで、日本側は黄海への進出が可能となり、海路による補給線を確保できると判断した。文禄の役(1592年)においては李舜臣の活動により補給は阻まれていたが、今回はその障害が取り除かれた形となった[23]

慶長の役において、日本軍は9月26日に南原を攻略し[24]、また9月7日には稷山において明軍と交戦しこれを阻止した[20]:478。その後、日本軍は海軍からの補給と増援を待ちつつ、黄海経由で西岸へ進出し、漢陽(現在のソウル)再攻略に向けた大規模作戦を計画した[25]

日本軍による全羅道掃討作戦は順調に推移し、9月中旬には最終段階に入って残るは全羅道南部のみとなっていた。当地に存在する明・朝鮮側の戦力は右水営に拠る朝鮮水軍わずか十二、三隻に過ぎなかった。朝鮮では漆川梁海戦で水軍が壊滅的打撃を受けた後、再び李舜臣を三道水軍統制使に任命していたが、戦力的劣勢は明らかであった。この状況で日本軍は陸軍が全羅道南部で南進を続け、水軍は沿海を西進し、水陸から鳴梁海峡方面に迫っていた。

戦闘の経過

板屋船(朝鮮水軍の主力艦)

慶長2年(1597年)8月下旬、左軍に属した船手衆の藤堂高虎(兵数2,800)、加藤嘉明(2,400)、脇坂安治(1,200)、来島通総(600)、菅達長(200)と目付毛利高政は全州占領後に艦船へ戻り、全羅道を北から南へと掃討を続ける陸軍に呼応して全羅道の南海岸沿いを西進し、先鋒は9月7日に於蘭浦沖に達する。碧波津(珍島の東北端の渡し口)に布陣していた李舜臣率いる朝鮮水軍はこれに対するため出撃したが、日本水軍先鋒が戦わずに立ち去ったため、追撃することができないままに碧波津に帰った。そもそも朝鮮水軍では大船が十二、三隻[26]があるだけであり、戦力的に劣勢だったため、後続の日本水軍の集結を知るとひとまず鳴梁渡に退き、15日さらに右水営沖に移った。鳴梁渡は珍島花源半島との間にある海峡であり、潮流が速く大きな渦を巻いている航行の難所である。

藤堂高虎らは敵の大船(本体)が近くにいることを知ってその捕獲を図り、9月16日、水路の危険を考えて全軍のうち関船(中型船)数十隻(朝鮮側記録では百三十余隻[27])だけを選抜して鳴梁渡へ向かった。これに対し朝鮮水軍は大船(板屋船)十二、三隻(その他後方に兵力を誇張するために動員された避難民の船百隻[28]があった[29]とされている。)で迎え撃つ。当初他の船は退いてしまい、一時は李舜臣の船一隻だけが立ちはだかった[30]

李舜臣の艦隊は海峡北側に展開して停泊した。李は旗艦を率いて日本艦隊の前衛に接近し、これを指揮していた来島通総と交戦した[31]。しばらくの間、戦闘はほぼ旗艦のみで行われた。

当時の朝鮮水軍の乗組員は漆川梁海戦の生存者で構成されており、日本艦隊の圧倒的な規模に動揺していた。李は日記において「旗艦のみが敵陣と対峙し、砲や矢を放ったが、他の艦は前進しなかった」と記している。また「他の将校たちは敵の大軍を前に退却しようとしていた」とも述べている。さらに、全羅右水使の金億秋が指揮する艦は1~2マジャン(約390メートル)離れた位置にあったという[32]:312。この間、旗艦は「海上に城を築いたかのよう」であったと記録されている[33]

帥字旗を掲げる李舜臣の旗艦は、海の中にそびえたつ城のように見えたという。旗艦の奮闘ぶりは朝鮮水軍を勇気づけ、僚船が次々と戦線に復帰した。まず地方官の安衛が指揮する艦が合流し、その後に中軍将の金応涵の艦隊が続いた[33][34]。これを受けて残りの艦隊も戦闘に参加した。

李舜臣は先に到着した安衛に対し、「安衛よ、軍法で死にたいのか。逃げてどこで生き延びるつもりか」と叱責した。続いて金応諴に対しては、「お前は中軍将でありながら遠くに退き、大将を救わなかった。その罪をどう免れるつもりか。今すぐ処刑したいが、敵の形勢も急迫しているため、まずは手柄を立てよ」と述べた[35]

日本軍に突撃していた安衛の船は、日本側大将船2隻の集中攻撃を受けて白兵戦の危機に陥った。この際、安衛の船の激軍(漕手)8名が恐怖により海に飛び込み溺死した[36]

その後、潮流が変化し、日本艦隊は後方へ流されて互いに衝突し始めた。この混乱の中で、李舜臣は前進して攻撃を続行するよう命じ、31隻の日本船に体当たり攻撃を行った。狭い海峡に密集した日本艦隊は朝鮮側の砲撃の標的となり、強い潮流のため海中に投げ出された者は岸へ泳ぎ着くことができず、沈没または損傷した船から離脱した日本側の兵の多くが溺死した。日本水軍は押し流され互いに衝突したり、密集しているところを朝鮮水軍の集中砲火を浴びた。日本水軍では来島通総以下数十人が戦死、藤堂高虎が負傷し、数隻が沈没するなどの甚大な損害を受けた[37][38][要出典]。毛利高政も海に落ちたが、藤堂水軍の藤堂孫八郎と藤堂勘解由に救助された[39]

一部の朝鮮側史料には損傷した日本艦の数も記録されているが、沈没しなかった艦の損害状況については不明な点が多い[40][41]。また、李の記録によれば、この時点で日本艦隊は接近を控えたとされるが、潮流や風向の不利、兵力差などの理由により戦闘継続は困難と判断され、日没後に唐寺島方面へ撤退した[33]

海戦後の経緯

日本水軍は大きな損害を受け、少なくとも30隻の戦闘艦が撃破された[42]。来島通総は戦死し、藤堂高虎は負傷、日本側は甚大な損害を被ったとされ、捕虜の証言によれば半数が死傷したという[43][44]

日本軍では8月26日の全州会議で定められた方針に従い、一度忠清道まで進出した陸軍のうち、左軍は全羅道に戻り北から南へと掃討を続けた。全羅道北部の掃討を完了後、この海戦と同時期に開かれた9月16日の井邑会議では残る全羅道南部の掃討方針が定められ、各大名は任地に向けて進撃した[27][要文献特定詳細情報]

残存する日本水軍に対してなお兵力的に劣勢であったため、李舜臣は艦隊の補給と機動防御の余地を確保するために9月19日に七山海(霊光郡沖)、9月21日には遥に全羅道北端の古群山島(群山沖)まで撤退した[27][要文献特定詳細情報]。その後、鳴梁海戦での戦果を受けて、七川梁海戦後に潜伏していた生存艦船や兵士の多くが李の艦隊に合流した[32]。また、朝鮮王朝実録に記録された李の上奏によれば、七川梁の敗北後において小規模ながら戦果を得たことで日本側の進出を抑制し、黄海への進入を阻止したとされる[45]。この戦果により、水軍は1598年初頭に李舜臣と合流することが可能となった。七川梁海戦後、明は日本水軍の攻撃に備えて主要港に艦隊を配置していたが、鳴梁海戦の結果を受けて警備を緩和し、朝鮮水軍支援のため艦隊を派遣した。

他方、鳴梁海戦の後、日本の水軍の一部は右水営周辺や珍島などに対して軍事行動を行い、周辺海域での活動を継続した。さらに全羅道西南岸の海域においても移動・作戦行動を展開し、朝鮮側関係者の一部を捕虜として拘束したとされる。例えば姜沆は後に藤堂水軍によって捕えられたことが記録されているが、その拘束地点については全羅道霊光付近の海域とされる[46]

9月下旬から10月にかけて、全羅道および朝鮮半島南海岸一帯では、日本軍の軍事活動と朝鮮側義兵による抵抗が並行して展開された。日本軍は一部地域で移動および作戦行動を継続し、海岸部を中心に軍事的影響力の確保を試みたとされ、この過程で戦闘や略奪に関する記録も残されている[47]

この時期、日本軍は従来の進攻中心の作戦から次第に転換し、順天南海朝鮮語版泗川朝鮮語版固城朝鮮語版、唐島瀬戸口(見乃梁)、昌原(馬山)、梁山、蔚山など南海岸各地において倭城を築造、あるいは既存の城郭を利用して拠点を整備することで、長期駐屯体制へと移行した[17][要文献特定詳細情報][48]

日本軍が去った後の鳴梁海峡では、ようやく10月8日になって朝鮮水軍が帰還するが、朝鮮水軍の根拠地である右水営は日本軍によって破壊された後であった[27][要文献特定詳細情報]

報復として、1597年11月23日(旧暦10月14日)に牙山にある李舜臣の居所が襲撃され、村は焼き払われ、李舜臣の末子である李面が殺害された[49]

李舜臣は根拠地を古今島(莞島郡古今面)に移して朝鮮水軍の再建を図ったが、次に積極的な作戦行動を実施するのは1年以上後の順天城の戦い以降となる。

評価

少なく見積もっても10倍の敵に勝利を収めたとして李舜臣の奮闘ぶりは韓国内では高い評価を得ている。

旧日本海軍が出版した書籍では朝鮮側の勝利であるとされている[50]

アメリカの歴史家たちは 「最終的に、李舜臣の13隻からなる艦隊は、その10倍の数の日本艦隊を撃破した。この敗北は日本の西海進出を阻んだだけでなく、朝鮮に海軍再建のための猶予を与えた。鳴梁における李舜臣の勝利は、彼の戦術、小規模ながらも強力な艦隊の建造、そして難民の民間人と難民船の戦闘参加によるものであった。」[51] 「日本軍が開海に到達し、疲弊した朝鮮軍が追撃を諦めた頃には、秀吉の艦隊31隻が壊滅し、李氏朝鮮の艦隊は無傷のまま残っていた。こうして日本海軍は慶尚道の国境に向けて後退を開始し、さらに安骨浦と釜山へと向かった。黄海への進路確保は完全に諦め、二度と西方へと進軍することはなかった」[52]と評価している。

一部の見解では、この戦闘が慶長の役を事実上終結させたとされる[53]

戦闘結果をめぐる議論

一部の日本側研究では、朝鮮水軍が鳴梁海峡および周辺海域を放棄して戦闘後に撤退したことから、本海戦を日本水軍の戦略的勝利とする見解も存在する[54]

しかし、日本統治時代に朝鮮総督府や日本人歴史家によって刊行された文献の多くは、本海戦を朝鮮側の決定的勝利と位置付けている[55][56]。また、旧日本海軍の資料においても同様の評価が見られる[57]

さらに、現代の日本人歴史家の多くも、本海戦を朝鮮側の決定的勝利とする見解を示している[58][59]

最終的に、李舜臣のわずか13隻の艦隊は、その約10倍に及ぶ日本艦隊を打ち破った。この敗北は日本軍の西海進出を阻止しただけでなく、朝鮮側に水軍再建の時間的余裕を与えた。鳴梁における李舜臣の勝利は、その戦術、小規模ながら強力な艦隊の編成、そして避難民や避難船の参戦によるものと評価されている。[60]
日本艦隊が外海へ出て、疲弊した朝鮮側が追撃を断念した時点で、秀吉の水軍は31隻を失い、一方で李舜臣の艦隊はほぼ無傷であった。その後、日本水軍は慶尚道方面へ後退し、さらに安骨浦や釜山へと撤収した。そして黄海への進出を断念し、西方への航行を再び試みることはなかった。[61]

分析

両軍の被害規模

日本側の被害

日本側は兵船三十一隻を失い、来島通総が戦死したほか、その家老らも多くが負傷した。藤堂高虎は重傷を負い、軍目付の毛利高政は海中に転落したが救出された[62]

藤堂家覚書はこの戦いを以下のようにまとめ、日本側の被害規模については半数以上が死傷し、来島通総が戦死したと記している。

御歸陣被成少前にこもがいへ御成御越候處すいゑんと申所に番舟の大将分十三艘居申候大川の瀬より早きしほの指引御座候所の内に少塩のやはらき候所に十三さうの舟居申候それを見付是非共取可申由舟手の衆と御相談に而則御取懸被成候大船にてそのせとをこぎくたし候儀は成ましきとていつれも関舟を御揃被成御かかり候先手の舟共は敵船にあひ手負数多出来申候中にも来島出雲守殿討死にて御座候其外舟手の被召連候家老之者共も過半手負討死仕候處に毛利民部大輔殿関舟にて番舟へ御かゝり被成候番舟船へ十文字のかまを御かけ候處に番舟より弓てつほうはけしく打候に付て舟をはなれ海へ御はいり被成あやうく候處に藤堂孫八郎藤堂勘解由両人舟をよせてきせむをおいのけたすけ申候朝の五時分より酉の刻迄御合戰にて御座へとも舟之様子番船能存候に付風を能見すまし其せと口をぬけほを引かけはしらせ申に付無是非追懸申儀も不罷成候和泉樣も手を二ヶ所おはせられ候[63]

朝鮮側の被害

朝鮮水軍側では、李舜臣の戦船で戦死2名・負傷3名[64]、安衛の戦船で溺死した8名を合わせ[65]、計13名の死傷者が発生した。

『乱中日記』によれば、李舜臣の戦船では戦死者2名が出ており、その内訳は順天監牧官の金卓および全羅左水営の奴婢・戒生であった。また、康津県監の李克信ら3名は銃撃を受けたが、重傷ではなかったとされる[66]

朝鮮水軍勝利の要因

数的に圧倒的な劣勢に置かれていたにもかかわらず、鳴梁海戦において朝鮮水軍が日本水軍を大破できた要因については、これまでの研究で以下の点が指摘されている。

艦船および武器体系の優位

朝鮮水軍の主力艦である板屋船は、非戦闘員である格軍(漕手)を安全に保護できる構造を持ち、日本軍船よりも甲板が高く、白兵戦が困難であった。また船体も堅牢であった[67]。さらに、日本水軍の大型戦船・安宅船は潮流のため投入されず、朝鮮水軍は有利な条件で戦闘を行うことができた。加えて、朝鮮水軍は火砲を装備しており、日本水軍に対して火力で優位に立っていた[68]

義兵および周辺支援

義兵や周辺の避難船は物資供給や沿岸での牽制に協力し、一部は実際の戦闘にも参加した[69]

李舜臣の戦略・戦術

李舜臣は散在していた水軍を短期間で再編し、戦闘態勢を整えた。さらに地形と潮流を利用して戦場を選定し、自ら最前線で指揮を執ることで戦局を主導した[70]

日本水軍の空白期間

7月16日、漆川梁海戦で大勝した日本水軍は、その後ただちに海戦を継続せず、休養を取ったのち、8月初旬には南原城の戦いに参加した。この戦いにおいて日本水軍は単なる参加にとどまらず、南原城攻略に大きく貢献した[71]。その後、全羅道地域の制圧を支援するため南海岸へ戻った。日本水軍が海上から西進を開始したのは8月下旬であり、すなわち漆川梁海戦後には1か月以上の空白期間が存在した[72]。この期間は、李舜臣をはじめとする朝鮮水軍が小規模ながらも強力な艦隊を再建するうえで有効に作用した[73]

日本水軍の迂回による朝鮮水軍包囲の可能性

一部の議論では、日本水軍が珍島郡周辺を迂回して朝鮮水軍を包囲する可能性について言及されることがある。日本側の関船(せきぶね)の航行速度は約5.5ノット(約10km/h)と推定されており[74]、松坪浦(ソンピョンポ)付近から珍島を迂回する航路は約70〜80kmと計算される。この場合、単純計算でおよそ7〜8時間程度の航行時間を要すると見積もられる。

また、珍島外海へ迂回する航路も決して容易ではなかった。珍島外海の海路である長竹水道は、鳴梁(ウルドルモク)に次いで潮流が速く、リアルタイム潮流情報の表示板が設置されている海域である[75]。さらに長竹水道を通過した先に位置する加沙島は、強い海風と潮流の影響により、漁業よりも農業に依存する地域とされる[76]

加えて、珍島東方の茅島一帯は「神秘の海割れ」で知られる遠浅の危険海域でもあった[77]。特に底の浅い船体構造(浅喫水船)を主体とする日本軍にとって、水路に不案内な状態で航行距離が延びることは極力回避すべき条件であった。また、朝鮮人の水先案内を確保することも困難であり、仮に確保できたとしても裏切りの危険性があった。

一方、朝鮮水軍は珍島周辺の複雑な多島海地形を利用した機動および隠蔽が可能であったため[78]、日本水軍が迂回機動を行った場合でも、遭遇を回避したり交戦を遅らせたりする形で対応した可能性が指摘されている。実際の海戦の展開は、地形条件および両軍の作戦選択によって大きく左右され得るものであった。

朝鮮水軍撤退・日本勝利の場合の戦局仮説

朝鮮水軍が海戦開始以前に撤退した場合や、日本水軍が戦闘で優位に立った場合には、朝鮮水軍が大きな損害を受け、制海権の維持が困難となった可能性が指摘されている[79]。このような状況が生じていた場合、日本軍の黄海方面での活動や漢城方面への進軍が可能となった可能性があるとする見解もある[80]

ただし実際には、鳴梁海戦後も朝鮮水軍は戦力の再編を行いながら海上活動を継続しており、日本水軍はその後、南海沿岸地域に倭城を築いて長期駐屯型の軍事作戦を展開した[81]

その他

来島通総
このとき戦死した伊予来島通総は、海戦に参加した大名(注・江戸時代以降のカテゴライズである「1万石以上の知行」という区切り)としては唯一の戦死者となった[82]。家督は次男の来島長親が継いだ。日本の捕虜となっていた姜沆は「通総が全羅右水営で戦死した時も、弟が代わってその城に居ることになった」と少々の誤認を含んだ上で、“家督相続により、その指揮系統が継承される”日本式の風習を記している。なお通総の庶兄の得居通幸も、朝鮮水軍との海戦で死亡している。
「馬多時」
「乱中日記」に記述のある討ち取られた日本の将“馬多時”は、この海戦で戦死した大名の来島通総と解されていることが多いが、戦死者として日本側の記録に名のある“菅野又四郎正陰”とする説がある[83]。“馬多時”の朝鮮語音はMatashiであり又四と同音という[84]。なお、“菅野”とあるのは誤記であり、正しくは船手衆として加わった大名であり淡路水軍を率いた菅平右衛門(菅達長)の子息である“菅又四郎(菅正陰)”のことである。

関連作品

参照

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI