陳保極
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学問を好み、文章を作るのを得意とした。後唐の魏博節度使の李従栄にその名を知られ、召し出されて魏博節度従事となった。天成3年(928年)、進士に及第した。李従栄は粗暴な性格で、あるとき保極が李従栄に告げずに宰相の邸を訪れたことに怒って、馬の鞭で保極を鞭打った。ほどなく保極は義武軍節度推官として出された。李従栄が敗死すると、保極は宰相に抜擢されて、礼部員外郎・倉部員外郎を歴任した。同光3年(925年)に桑維翰が進士に及第し、保極は李従栄の幕下にあったが、「近頃知ったのだが、今年は三人の半人が進士に及第した」と同輩にふざけていった。保極は桑維翰の身長が低く、顔が醜いのを半人といったのだった[1]。
後晋の天福年間、桑維翰が宰相となると、保極は桑維翰に憎まれていることを恐れて、暇乞いをして南遊し、姿をくらまそうとした。桑維翰は保極が呉に逃げこむ恐れがあると上奏し、保極を捕まえさせた。同僚の李崧の言上により保極は釈放されたが、衛尉寺丞に降格された。ほどなく再び倉部員外郎となり、憂憤のうちに死去した[1]。