陳君賓

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陳 君賓(ちん くんひん、生没年不詳)は、初の官僚

の鄱陽王陳伯山の子として生まれた。隋に仕えて襄国郡太守となった。武徳元年(618年)、唐に帰順し、東陽郡公に封じられ、襄国郡が邢州と改められると、邢州刺史に任じられた[1][2]。武徳2年(619年)、竇建徳が邢州を陥落させると、君賓は捕らえられた[3]。竇建徳はかれを殺そうとしたが、国子監祭酒の凌敬の諫言を受けて取りやめた[4][5]。武徳4年(621年)、劉黒闥洺州を陥落させると、君賓は程名振とともに脱出して唐に帰った[6][7]貞観元年(627年)、鄧州刺史に転じた。鄧州の村々は兵乱の後で、民衆が生業を離れて別地に転出していた。君賓が着任すると、みな帰ってきて生業にもどった。貞観2年(628年)、天下の諸州はみな霜害に遭ったが、鄧州だけは害を免れ、食糧を備蓄できたので、蒲州などの人々が食を求めて流入した。君賓はかれらに食事を分け与えて、太宗にその労をねぎらわれた[8][2]

その年のうちに、君賓は入朝して太府寺少卿となり、少府少監に転じた。貞観9年(635年)、事件に連座して官爵を剥奪された。のちに虔州刺史に起用され、死去した[9][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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